南海歴史散歩 in 和歌山


廃止まであと2日の水軒駅にて

 関西私鉄大手5社のひとつである南海電鉄は、現存する日本最古の純民間鉄道会社です。
 現在の南海本線・難波-大和川間が蒸気運転で部分開業したのが1885年、難波-和歌山市間の全通が1903年ですから、その歴史は既に1世紀にも及びます。もちろん、大阪と和歌山を直結する最初の鉄道路線。既存の官営鉄道に対抗すべく、最初から広軌の電化路線として開業した阪神(1905年)、阪急・京阪(共に1910年)、近鉄(1914年)とは、その生い立ちは大いに異なります。
 初夏の一日、この歴史ある南海電鉄の枝線試乗に出かけました。

旅程(2002年5月23日)

吹田1139-(167C)-1143新大阪1203-(2065M・特急くろしお15号)-1301和歌山1315-(南海貴志川線)-1344貴志1420-(南海貴志川線)-1452和歌山-<タクシー>-和歌山市1520-(南海和歌山港線)-1530水軒1536-(南海和歌山港線)-1546和歌山市1554-(南海加太線)-1618加太1625-(南海加太線)-1652和歌山市-<徒歩>-[ラーメン店]-<徒歩>-紀和1822-(259M)-1824和歌山市1900-(特急サザン22号)-1959難波


新大阪駅にて


くろしお15号(新大阪駅)


新大阪駅で


梅田駅(くろしお15号車内から)


梅田駅
(2002年6月23日・大阪駅前の高層ビルから撮影)


くろしお15号車内で


大阪ドーム(くろしお15号車内から)


中華弁当(水了軒・850円)


くろしお15号車内で

特急くろしお15号

新大阪→天王寺

 新大阪駅コンコースには、一見して遊びにに行くとわかる客は皆無であった。スーツ姿のビジネスマンが足早に行き交う中、駅弁売り場に行き、昼食とビールを調達。在来線11番のりばに向かった。

 これから乗車するのは、白浜行きの特急くろしお15号である。

 南紀白浜は、大阪から数時間の手近な温泉として知られている。首都圏で言うならば、さしずめ熱海や伊豆といったところであろう。平日正午に大阪を出て観光地に向かう特急列車の乗客はあまり多くないと予想していたが、ネクタイを締めた男性客が案外多く乗り込んで、新大阪駅を出発した。

 新大阪駅を出たくろしお15号は、大きく身をよじって、通称"梅田貨物線"に乗り入れる。"梅田貨物線"は、旧吹田操車場から大阪駅の北に位置する梅田貨物駅に延びる線路で、旅客線とは別の複線電化の専用鉄橋で淀川を渡る。

 淀川を渡り終えた"梅田貨物線"は、東海道本線と別れて、大きく右にカーブする。JRバスの車庫をかすめ、3複線の阪急線の下をくぐると、左手に広大な貨物駅が見えてくる。東京・汐留駅と対峙したかつての国鉄貨物輸送の拠点・梅田駅である。キタの高層ビル群を借景に、数棟のくすんだ貨物上屋が建ち、無数のコンテナ車が留置されている。

 汐留駅は、1986年の廃止後、早々に売却されて再開発が進んでいるが、梅田は未だに操業中である。日本鉄道建設公団国鉄精算事業本部としては早急に処分したいようだが、適当な移転先が見つからず、計画は遅々として進まない。

 梅田駅を出た列車は、東海道本線の高架をくぐり抜け、大阪環状線の高架と合流する。しかし、くろしお15号はすぐには環状線の線路に乗り入れず、しばらくの間、単線の専用の線路を走って、西九条駅でやっと内回り線に移ることになる。

 西九条と大正(境川信号所)の間は、大阪環状線でもっとも最後に開通した区間である。大阪駅から京橋、鶴橋を経て天王寺に至る東半分は城東線として戦前から電車運転が行われていた。しかし、西半分は、臨海部への通勤輸送を目的として、戦後、既存の臨港線をつなぎあわせるかたちで建設されたもので、大正-西九条間の開通は1961年、山手線のような環状運転が始まったのは1964年のことである。

 このような歴史的経緯があるので、大阪環状線の西半分は、工場地帯を走っている。高度成長期には活気を呈したこの一帯も、いまは元気がない。古い工場に人影は少なく、広い産業用の道路を行き交うクルマもそれほど多くないようだ。

 大正駅をすぎたところで、車窓左手に大阪ドームが見えてくる。地域の活性化を目論んで、ガス工場の跡地に建設された施設である。しかし、建物周囲の余裕が乏しく、UFO型の屋根はガスタンクに隠れてしまっている。

 真新しい今宮駅を通過、通天閣を眺めながら、天王寺着。

天王寺→和歌山

 天王寺では多くの乗車があって、自由席車内はほぼ満員になる。座席を向かい合わせにして乾杯する行楽客の姿もないわけではないが、乗客の多くは仕事で乗り合わせた人たちのようだ。コンビニおにぎりをかじりながら、ノートパソコンをのぞき込んでいる人も一人や二人ではなかった。

 天王寺駅の関西線ホームを出た列車は、急勾配の単線を登って高架の阪和線に合流する。
 1989年にこの渡り線が完成するまでは、京都や新大阪から和歌山へ直通する列車は運転できず、阪和線を経由する列車はすべて地上の行き止まり式ホームに発着していた。

 阪和線は天王寺駅と和歌山駅(開通当時は東和歌山駅)とを結ぶ全長61.3Kmの路線で、阪和電気鉄道の手によって1930年に全通している。天王寺駅構内で、大阪環状線・関西線とレールがつながっていなかった(*1)のは、この歴史的経緯によるのである。

 冒頭にも書いたとおり、大阪-和歌山間には現在の南海本線が既に敷設されていたから、阪和電気鉄道は、新京阪(現在の阪急京都線・1928年開通)、参宮急行電鉄(現在の近鉄大阪線桜井以東・1930年開通)と同様、既存の鉄道に対抗して、高速電気運転を目論んで新設された高規格路線であると言える。
 阪和電気鉄道は、モヨ100型と呼ばれる高性能電車を投入し、天王寺-東和歌山間を45分で結んだ。70年後の今日、私が乗っているくろしお15号の所要時間は41分(ただし、鳳停車)であるから、その俊足ぶりがうかがえる。

 開業当初からの高架橋は南田辺までで、ここから先は住宅密集地を走り抜けることになる。主要道路とはすべて平面交差で、『開かずの踏切』として悪評高いところも少なくない。現在、高架化工事が行われていて、完成すれば天王寺-杉本町間が高架になることになっている。

 広い川幅をもつ大和川を渡り、列車は堺市内に入る。線路の両側には、小さなビルや住宅が途切れることなく続いていて、眺めはあまりよろしくない。

 さっきから、車内検札が始まっている。
 私は新大阪駅で買った特急券を準備して待っているが、車掌はなかなかこちらに近づかない。特急券を所持している客は半分もおらず、料金の徴収に忙しいようだ。グループで乗っている客は少ないから、精算は一人ひとりとなって、余計に時間がかかっているようである。

 待ちきれないので、弁当を開くことにする。新大阪駅・水了軒の『中華弁当』だ。少し濃いめの味付けの中華料理が少しずつ盛られた弁当で、ビールのつまみにもちょうど良い。
 平日昼間から、大した用もないのに特急に乗り、酒を呑む。まともな人間のすることではないとの自覚はあるけれど、時間に追われる日々のなかで、たまにはこういうことをしないとココロがもたないとも思っている。

 阪和電鉄開業以来の電車基地がある鳳を過ぎると、駅間では田畑が目立つようになる。

 大阪湾岸の古い集落を結んで走る南海本線に対して、阪和線はやや山手を通っている。今日でこそ住宅が建ち並んでいるが、開業当初は一面の田畑の中を走っていたという。
 当然、経営状態は芳しくなく、1940年にはライバルの南海電鉄に合併されることになる。更に1944年には、国に買収されて阪和線となり、現在に至っている。
 その出生ゆえに、阪和線各駅の設備はいかにも私鉄風だ。駅本屋に面した1番線と、島式ホームの2・3番線、それに若干の貨物引き込み線という典型的な国鉄型の駅は皆無である。対向型の2面2線のプラットホームの端に小振りな本屋がある駅が大半だ。

 空港線が分岐し、大規模な電車基地がある日根野を過ぎると、列車は丘陵地を走るようになる。和泉鳥取を出ると上り勾配はいよいよきつくなる。泉州と紀州を隔てる和泉山脈を越えるのだ。もっとも、阪和道の巨大な高架橋脚が視界をさえぎり、車窓の眺めはいまひとつである。

 地勢上、交通の隘路となる部分で、道路と鉄道がスペースを奪いあうのはよくあることである。
 さすがに新幹線ともなると、長大トンネルで一気に通過してしまうのだが、現代の高速道路に要求される条件(勾配やトンネルの長さなど)は、旧来の鉄道のそれと妙に一致しているようで、既存の鉄道路線に沿って高速道路が建設された場所は数多い。地べたを這う旧来の鉄道に対して、現代の高速道路は高い高架橋で難所を越える。東海道線の由比付近、北陸線の親不知付近、篠ノ井線の姨捨付近など、あとからできた高速道路が鉄道の車窓風景をぶち壊しにしている場所は無数にある。

 鉄道旅行者としては愉快でないが、地元の人たちは古い鉄道よりも新しい道路を熱望している訳だから、仕方がないとも思う。

 13時01分、和歌山着。おおぜいのビジネスマンとともに、列車を降りた。

*1:厳密に言えば、大阪環状線の寺田駅方に入換用の線路は存在した。

続く

My Railwayに戻る


Copyright by Heian Software Engineering (C)H.S.E. 2002 Allrights reserved.
2002年5月25日 制作 2003年7月19日 修正