須坂→屋代 |
||||
|
須坂からは、屋代線に乗り換えて、屋代に向かう。 既に書いたように、かつては信越本線屋代駅から須坂、信州中野を経て木島駅に至る路線が長野電鉄のメインルートであった(河東線)。上野から屋代を経由して湯田中や木島まで、国鉄の直通急行列車が走っていた時代もある。 私の考えでは、高校生の通学以外の目的で鉄道を利用して貰うには、日中1時間に1本が最低運行基準であると思う。逆に言えば、それ以下の本数しかない路線は、鉄道会社がまともな経営を放棄し、公益企業のメンツのためだけに列車を走らせていると考えてよい。 須坂駅の4番のりばには、やはり日比谷線の中古車が客を待っていた。ただし、さっき乗った車両と違って、冷房はない。儲けにならない線区には、1円たりとも余計な金はかけないという会社の固い意志が透けて見える気がする。 発車までしばらく時間があるので、構内を散歩する。さまざまな車両が憩う車両工場が見える。電気機関車らしい姿もある。今日はひっそりしているが、平日であれば、入換作業が見られるのかも知れない。ホームの端には、古い転てつ機を集めた場所もあった。ガラクタをほったらかしにしてあるように見えなくもないが、鉄道ファンにとっては、楽しい。 座席が半分くらい埋まったところで、発車。 列車が小さな駅に着くごとに、数人ずつの客が下車する。車内はだんだん寂しくなって、松代駅を出る頃には、乗客は全部で10人くらいになった。 今は長野市に属する松代は、真田十万石の城下町として知られるが、太平洋戦争末期に、いわゆる松代大本営が作られたところでもある。本土決戦に備えて、皇居と政府中枢部を収容すべく着工された地下壕で、総延長10Kmにも及ぶトンネルが今も残っているという。 高い防音壁に覆われた長野新幹線の高架をくぐると、右手からしなの鉄道の線路が近づく。しばらく並走したのち、列車は終点の屋代駅に到着した。 有人駅だが、しなの鉄道に乗り換える客もいるから、電車を降りる時に精算を行う。湯田中駅で買った乗車券を運賃箱に入れると、『長野電鉄精算済み』と書かれた証明書手渡されるが、コピー機で作成した何とも安っぽい紙片であった。 |
屋代→上田 |
||||
|
屋代駅での連絡はあまり良いとは言えず、26分もの待ち時間がある。 けれども、昭和30年代のまま、時間が止まってしまったかのような長野電鉄のプラットホームとか、鉄道考古学の分野では国宝級とされる木造跨線橋などを眺めていたら、待ち時間は瞬く間に過ぎる。 13時35分、しなの鉄道の上り列車が入線してきた。 車内は、座席が全部ふさがるものの、立っている人はいない位の乗車率。 13時56分、上田着。 |