須坂→屋代


屋代行き普通列車(須坂駅)


屋代線の発車時刻表(須坂駅)


須坂駅で


屋代線の前方展望


屋代駅で

 須坂からは、屋代線に乗り換えて、屋代に向かう。

 既に書いたように、かつては信越本線屋代駅から須坂、信州中野を経て木島駅に至る路線が長野電鉄のメインルートであった(河東線)。上野から屋代を経由して湯田中や木島まで、国鉄の直通急行列車が走っていた時代もある。
 けれども、1997年に開通した長野新幹線に、屋代駅は作られなかった。かくて、屋代-須坂間は、首都圏から湯田中方面へのエントランスという機能を失い、完全なお荷物線区となったのである。
 長野-湯田中間では、1時間サイクルのダイヤを維持する長野電鉄も、屋代線では1〜2時間に1本の列車が不規則に運転されるだけである。

 私の考えでは、高校生の通学以外の目的で鉄道を利用して貰うには、日中1時間に1本が最低運行基準であると思う。逆に言えば、それ以下の本数しかない路線は、鉄道会社がまともな経営を放棄し、公益企業のメンツのためだけに列車を走らせていると考えてよい。
 須坂-屋代間の所要時間は約37分となっているが、もし、これが27分なら、今でも辛うじて1時間ごとの運転が行われていたのではなかろうか。なぜ、そう言えるのかは----話が複雑になるので、止める。

 須坂駅の4番のりばには、やはり日比谷線の中古車が客を待っていた。ただし、さっき乗った車両と違って、冷房はない。儲けにならない線区には、1円たりとも余計な金はかけないという会社の固い意志が透けて見える気がする。

 発車までしばらく時間があるので、構内を散歩する。さまざまな車両が憩う車両工場が見える。電気機関車らしい姿もある。今日はひっそりしているが、平日であれば、入換作業が見られるのかも知れない。ホームの端には、古い転てつ機を集めた場所もあった。ガラクタをほったらかしにしてあるように見えなくもないが、鉄道ファンにとっては、楽しい。

 座席が半分くらい埋まったところで、発車。
 列車は、華奢な架線柱が並ぶ、いかにもローカル私鉄らしい線路を案外高いスピードで駆け抜けていく。こういう貧弱な線路をかつては国鉄の急行電車が走っていたわけで、そのミスマッチ感覚はさぞかし面白かっただろうと思う。

 列車が小さな駅に着くごとに、数人ずつの客が下車する。車内はだんだん寂しくなって、松代駅を出る頃には、乗客は全部で10人くらいになった。

 今は長野市に属する松代は、真田十万石の城下町として知られるが、太平洋戦争末期に、いわゆる松代大本営が作られたところでもある。本土決戦に備えて、皇居と政府中枢部を収容すべく着工された地下壕で、総延長10Kmにも及ぶトンネルが今も残っているという。
 幸いなことに、この地下式要塞の完成を見ぬまま8月15日を迎えたわけだが、その一部は今でも見学できるらしい。鉄分を含んだ個性的な松代温泉にも入ってみたいし、屋代線が走っているうちに、是非途中下車したい駅だ。

 高い防音壁に覆われた長野新幹線の高架をくぐると、右手からしなの鉄道の線路が近づく。しばらく並走したのち、列車は終点の屋代駅に到着した。

 有人駅だが、しなの鉄道に乗り換える客もいるから、電車を降りる時に精算を行う。湯田中駅で買った乗車券を運賃箱に入れると、『長野電鉄精算済み』と書かれた証明書手渡されるが、コピー機で作成した何とも安っぽい紙片であった。

屋代→上田


屋代駅の木造跨線橋


屋代駅で

 屋代駅での連絡はあまり良いとは言えず、26分もの待ち時間がある。

 けれども、昭和30年代のまま、時間が止まってしまったかのような長野電鉄のプラットホームとか、鉄道考古学の分野では国宝級とされる木造跨線橋などを眺めていたら、待ち時間は瞬く間に過ぎる。

 13時35分、しなの鉄道の上り列車が入線してきた。
 派手な色に塗られた旧国鉄の近郊型電車で、色を変えるだけで、随分と印象が違うものである。

 車内は、座席が全部ふさがるものの、立っている人はいない位の乗車率。
 大幅な赤字が問題になっているとはいえ、もとJRの幹線鉄道を引き継いだ路線の乗客数は、廃線寸前の長野鉄道屋代線とは格段の差がある。
 もちろん、線路の整備状態も月とスッポンであり、電車はほとんど揺れることなく、ロングレールの上をすべるように走っていく。

 13時56分、上田着。


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制作:2005年10月18日 修正:2005年10月28日