伊勢奥津駅で
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■名松線■松阪→家城 松阪駅5番ホームでは、1両の気動車が静かに出発時刻を待っていた。これから乗る名松線の普通列車である。 運転席には、既に革製のタブレットキャリアが置かれている。その中に納められた、三角形の穴が開いたステンレス板が通票である。かつては全国どこででも見られた鉄道の小道具だが、今も現役で使われている線区は、ごくわずかしかない。(詳細は、通票よんかくを参照) 20人程を乗せて、定刻、松阪発。乗客の顔ぶれは、鉄道旅行者と地元の利用者が半々といったところであった。 しばらく" 紀勢本線"の線路を走った列車は、松阪駅構内のはずれで本線と分岐し、いよいよ正真正銘の名松線に乗り入れる。線路のバラストは見るからに薄く、ローカルムードが濃い。 前方に腕木式信号機が見えてきた。家城駅の下り場内信号機である。腕木式信号機は、通票よりも更に希少な前世紀的鉄道遺産(?)であり、全国のJRで現役なのは、北海道の石勝線、東日本の八戸線とこの家城駅だけである。 ATSのベルがけたたましく鳴って、家城に到着。反対側の線路には、対向する上り列車が待っている。 指差喚呼を繰り返しながら、初老の駅長は手際よく列車交換の作業を進めていく。非自動区間では、安全確保の相当部分が、現場職員の注意ひとつにかかっているから、その責務は重大である。 かつては、津々浦々の駅や信号場でかような取り扱いが行われ、その無数の作業の上に全国的な鉄道輸送網が機能していたのだ。今にして思えば、かつての鉄道は恐ろしく労働集約的な産業であったのだとつくづく思う。 ■家城→伊勢奥津出発信号機の腕木がカタリと下がり、スタフ(携帯電話つき)が手渡される。駅長の右手がさっと上がると、列車がゆっくりと動き出した。 家城から先は、雲出川が刻む一層深く険しい峡谷に沿って線路が敷かれている。列車は、崖っぷちの急カーブをそ極低速で進んでいく。雲出川の水量は思いのほか豊かで、万一列車が転落したら、ちっぽけな軽快気動車なんぞはあっという間に伊勢湾まで押し流されるような気がした。 伊勢八知のすぐ手前に、山間部にしては大きなレジャー施設がある。お盆休みということもあって、プールは芋の子を洗うが如き混雑だ。駐車場は満杯、休耕田みたいな空き地にまで車を収容している。 再び雲出川に沿って列車は進み、線路が右に大きくカーブしたところが終点・伊勢奥津であった。 列車から降り立ったのは、約10名。皆、思い思いに景色を眺めたり、写真を撮ったりしている。とどのつまり、終点まで乗り通した乗客は全員、私と同じ目的でこの列車に乗っていたのであって、まともな乗客は皆無だったというわけだ。 ■伊勢奥津→名張 良く知られたことだが、名松線の"名"は名張、"松"は松阪のことである。 全国版の時刻表には載っていないが、実は名張までの名松線未成区間を結ぶ路線バスが運転されている。1日たったの3往復であるから、数少ない名松線の列車が、すべてバスに接続している訳ではない。と言うよりも、大阪から日帰りで名松線を堪能しようと思うと、この日私がたどった乗り継ぎ以外に解はない。 列車からバスに乗り継いだ客は私を含めて3名で、これが伊勢奥津発車時の乗客のすべてであった。 伊勢奥津を出たバスは、杉木立に包まれた道路を縫うように走る。部分的に2車線化されているところもあるが、バス1台がやっと通れる位の場所も少なくなく、ハンドルを握る運転士は緊張の連続だろう。 案内テープが次々に停留所を告げるが、乗降はない。バスが再び三重県に入ってからは、リュックサックを背負ったハイカーなどがぽつりぽつりと乗車するようになった。 道の両側に真新しい住宅が増えると、名張である。大阪のベッドタウンとして、ここ20年程の間に急速に人口が増えところだ。実は、私の実家はこの名張の隣村である。私が小学生の頃、一面の田んぼだったところに、雨後の筍のごとくファミレスやショッピングモールが建った。道路はマイカーで埋まり、バスはなかなか進まない。 けれども、多少の渋滞は織り込み済みなのであろう。バスはダイヤ通りに名張駅に着く。30年来あまり変わりばえのしない駅と駅前だが、かつて母に連れられて買い物に来た頃の賑わいはどこにもなかった。 |
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2003年8月11日 制作 2003年8月19日 修正