青春18---ステーキとスイッチバックの旅


伊勢奥津駅で


松阪駅の出発信号機


松阪-家城間の通票


家城駅で


家城駅で


下り出発信号機(家城駅)


伊勢奥津駅本屋


未成区間を結ぶ三重交通バス(伊勢奥津駅)


名張駅
改装されてはいるが、開業以来の建物である。

名松線

松阪→家城

 松阪駅5番ホームでは、1両の気動車が静かに出発時刻を待っていた。これから乗る名松線の普通列車である。
 さっきと同じキハ11型気動車で、本線も、支線も、同じ型の単行列車というのは、少々面白みに欠ける。もっとも、これは鉄道趣味者的解釈であって、本当は、本線でも、単行気動車で事足りる程度の乗客しかいない現実を直視すべきなのだが...。

 運転席には、既に革製のタブレットキャリアが置かれている。その中に納められた、三角形の穴が開いたステンレス板が通票である。かつては全国どこででも見られた鉄道の小道具だが、今も現役で使われている線区は、ごくわずかしかない。(詳細は、通票よんかくを参照)
 タブレットキャリアの輪っかには、もう一つ、見慣れぬ革製の袋がついている。目を凝らして見ると、それは携帯電話のケースであった。
 確かに、通票とペアで、閉塞区間ごとの専用電話を準備すれば、駅から在線する列車と容易に通話が出来る。通票は夜間は駅で保管する規則だから、電話機もその際充電すれば良い。
 古典的な閉塞手段と今風の通信手段の巧妙な同居に感心した。

 20人程を乗せて、定刻、松阪発。乗客の顔ぶれは、鉄道旅行者と地元の利用者が半々といったところであった。

 しばらく" 紀勢本線"の線路を走った列車は、松阪駅構内のはずれで本線と分岐し、いよいよ正真正銘の名松線に乗り入れる。線路のバラストは見るからに薄く、ローカルムードが濃い。
 列車は、ごく短いホームしかない小駅に小まめに停まり、その都度、1人か2人のお年寄りを下ろしてく。

 前方に腕木式信号機が見えてきた。家城駅の下り場内信号機である。腕木式信号機は、通票よりも更に希少な前世紀的鉄道遺産(?)であり、全国のJRで現役なのは、北海道の石勝線、東日本の八戸線とこの家城駅だけである。

 ATSのベルがけたたましく鳴って、家城に到着。反対側の線路には、対向する上り列車が待っている。
 家城は、名松線唯一の有人駅でもある。バスの車掌が使うようなカバンをタスキにかけた駅長に、運転士から通票が手渡される。その様子を撮影するカメラマン数人。

 指差喚呼を繰り返しながら、初老の駅長は手際よく列車交換の作業を進めていく。非自動区間では、安全確保の相当部分が、現場職員の注意ひとつにかかっているから、その責務は重大である。

 かつては、津々浦々の駅や信号場でかような取り扱いが行われ、その無数の作業の上に全国的な鉄道輸送網が機能していたのだ。今にして思えば、かつての鉄道は恐ろしく労働集約的な産業であったのだとつくづく思う。
 けれども、その後の自動化に伴って、鉄道は装置産業的色彩が強くなった。今や列車の運転に直接かかわっているのは、運転指令所の司令員と運転士だけである。駅員は、列車運行には直接タッチすることがなくなり、一部の私鉄では、駅の業務を全面的に子会社に移管する例も出てきている。
 あと10年もすれば、駅員は接客のみに専念する職種になり、信号機の見方も知らない....という時代になるかも知れないと思う。

家城→伊勢奥津

 出発信号機の腕木がカタリと下がり、スタフ(携帯電話つき)が手渡される。駅長の右手がさっと上がると、列車がゆっくりと動き出した。

 家城から先は、雲出川が刻む一層深く険しい峡谷に沿って線路が敷かれている。列車は、崖っぷちの急カーブをそ極低速で進んでいく。雲出川の水量は思いのほか豊かで、万一列車が転落したら、ちっぽけな軽快気動車なんぞはあっという間に伊勢湾まで押し流されるような気がした。

 伊勢八知のすぐ手前に、山間部にしては大きなレジャー施設がある。お盆休みということもあって、プールは芋の子を洗うが如き混雑だ。駐車場は満杯、休耕田みたいな空き地にまで車を収容している。
 けれども、伊勢八知で下車した人のなかに、レジャー客らしい人の姿は皆無であった。けなげに走り続ける名松線だが、地元観光施設へのアクセス手段としてはまったく相手にされていない。

 再び雲出川に沿って列車は進み、線路が右に大きくカーブしたところが終点・伊勢奥津であった。

 列車から降り立ったのは、約10名。皆、思い思いに景色を眺めたり、写真を撮ったりしている。とどのつまり、終点まで乗り通した乗客は全員、私と同じ目的でこの列車に乗っていたのであって、まともな乗客は皆無だったというわけだ。
 この駅も無人化されて久しいけれど、嬉しいことに旧来の駅舎がそのまま残されている。いかにもローカル線ふうの、木造瓦葺きのこぢんまりとした駅舎である。ゆっくり駅や駅前集落を観察したいが、時間がない。名張行きの最終バスがわずか4分後に発車するからである。

伊勢奥津→名張

 良く知られたことだが、名松線の"名"は名張、"松"は松阪のことである。
 松阪から名張を目指して、1929年に権現前、1935年には伊勢奥津まで開業したが、その後の工事は進展しなかった。当初の目的を果たせぬまま、国鉄末期の赤字ローカル線整理で廃線リストに挙げられ、その生命は尽きたかのように見えたが、並行道路が未整備であるという理由でかろうじて現在も生き永らえている。

 全国版の時刻表には載っていないが、実は名張までの名松線未成区間を結ぶ路線バスが運転されている。1日たったの3往復であるから、数少ない名松線の列車が、すべてバスに接続している訳ではない。と言うよりも、大阪から日帰りで名松線を堪能しようと思うと、この日私がたどった乗り継ぎ以外に解はない。

 列車からバスに乗り継いだ客は私を含めて3名で、これが伊勢奥津発車時の乗客のすべてであった。

 伊勢奥津を出たバスは、杉木立に包まれた道路を縫うように走る。部分的に2車線化されているところもあるが、バス1台がやっと通れる位の場所も少なくなく、ハンドルを握る運転士は緊張の連続だろう。
 途中、杉平という小集落から奈良県に入り、小さなサミットを越える。この先は淀川水系の名張川に沿って走ることになる。言わば紀伊半島の分水嶺を越えたわけだ。

 案内テープが次々に停留所を告げるが、乗降はない。バスが再び三重県に入ってからは、リュックサックを背負ったハイカーなどがぽつりぽつりと乗車するようになった。

 道の両側に真新しい住宅が増えると、名張である。大阪のベッドタウンとして、ここ20年程の間に急速に人口が増えところだ。実は、私の実家はこの名張の隣村である。私が小学生の頃、一面の田んぼだったところに、雨後の筍のごとくファミレスやショッピングモールが建った。道路はマイカーで埋まり、バスはなかなか進まない。

 けれども、多少の渋滞は織り込み済みなのであろう。バスはダイヤ通りに名張駅に着く。30年来あまり変わりばえのしない駅と駅前だが、かつて母に連れられて買い物に来た頃の賑わいはどこにもなかった。

続く

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2003年8月11日 制作 2003年8月19日 修正