政田駅で
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■揖斐線名鉄揖斐線は、忠節-黒野間12.7Kmの路線をいう。1914年、岐北軽便鉄道として忠節-美濃北方間が開通したのがその起源である。(→とらむのほーむぺーじ) もともと、岐阜とその近郊の町を結ぶ目的で敷設された鉄道で、市内交通を担う路面電車(岐阜市内線)とは、自ずと性格が異なっていた。車両も、チンチン電車ではない、一般的な電車が使われていたらしい。無論、市内線と直接レールはつながっていなかった。 そのため、揖斐線の各駅から岐阜市中心部に向かう旅客は、忠節での乗り換えを余儀なくされていた訳だが、モータリゼーションの進展に危機感を抱いた名鉄は、1967年、市内線との直通運転を開始した。揖斐線の利便性を高め、便利な自動車に対抗しようという訳だ。 実は、郊外電車がそのまま都心の路面電車区間に乗り入れる方式は、都心の交通渋滞や環境悪化を解決する切り札として、いま、大変な注目を浴びている。 かような歴史的経緯があるので、揖斐線は、市内線とはかなり様相を異にする。 忠節を出た電車は、単線の線路を飄々と走る。自動車という邪魔者がいないから、新鋭車両はその性能を遺憾なく発揮して思いのほか高速である。 終点・黒野は、車両基地も併設された拠点駅である。好ましいスタイルの木造駅舎が現役だ。 構内は、いかにも私鉄らしいコンパクトな造りだが、車庫や洗滌線、保守用トロッコが留め置かれた側線など、ひととおりのものが揃っている。そして、それら全てが、木造屋根が懸かったホームから一望できる。名鉄の車両に関する知識は皆無だが、洗滌線には、古風な正面5枚窓の電車が2両連結で留置されていた。 かつて、揖斐線は更に先の本揖斐まで続いており、また、支線である谷汲線が分岐していた。2001年秋、赤字を理由に廃止されてしまったけれど、ゆるやかな曲線を描いて別れゆく2本の引き上げ線が、その名残のようであった。 人の姿が少ない黒野駅だが、日中も15分ヘッドのダイヤが組まれているから、電車の着発はけっこう頻繁である。 帰りの電車は、連節式の2両編成であった。 |
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2004年6月27日 制作 2004年6月27日 修正