急行きたぐにと越後の私鉄試乗記


大阪駅で出発を待つ急行きたぐに

 9月に入って最初の週末、急行きたぐにに乗って、廃止がうわさされる越後のローカル私鉄・蒲原鉄道と新潟交通に乗ってきました。
 急行きたぐには初乗り。電車化されているとは言え、『夜行列車』の面影を色濃く残す急行です。蒲原鉄道は2回目。初乗りはまだ加茂まで通じていた頃ですが、車両や駅の風情はその当時と大差ないようでした。新潟交通は、今まで残っていたのが不思議なくらいのローカル私鉄。来年春には廃止されることが既に決まっています。
 以下はそのレポートです。

■旅程 (98.9.5〜98.9.6)

大阪2326-(501M・急行きたぐに)-0810新津0836-(3222D)-0850五泉0912-(蒲原鉄道)-0920村松0955-(蒲原鉄道)-1003五泉1007-(2231D)-1024新津1057-(436M)-1117加茂-(タクシー)-月潟1145-(新潟交通・113列車)-1224東関屋-(バス)-新潟1400-(444M)-1515長岡1518-(8394M)-1622直江津1636-(570M)-1842富山1850-(458M)-2119福井2123-(4046M・特急サンダーバード46号)-2245京都2250-(3269M)-2303高槻2304-(普通)-2315岸辺


■急行きたぐに (写真はこちら)

 土曜夜10時を過ぎると、大阪駅のコンコースは閑散としている。ビジネスマンや一見して旅行者とわかる人の姿はなく、遊び疲れたのか、床に座り込んでケータイをかけている若者の姿ばかりが目立つ。
 週休二日が常識となって、土曜の夜に出掛けようという旅行者は少ない。けれども、未だに『土曜半ドン』の前時代的な職場に勤める私が、週末を利用して新潟に行くには、夜行列車に乗る以外に選択の余地はない。あまり疲れることはしたくないので、私にしては珍しく、自由席車がある列車にもかかわらずB寝台券を準備しておいた。

 唯一開いていたコンコースの売店で缶ビールを買い、暇そうな係員の改札を受けて11番ホームに上がる。昼間は北陸特急が華やかに出発する長距離ホームは閑散としている。自由席の乗車口にも行列はない。
 23時06分、神戸方から3つの前照灯を光らせて、急行『きたぐに』新潟行きが入線する。583系9連。白とグレーを基調とする新塗色になり、国鉄時代とはだいぶ印象が違う。狭い寝台ではお酒が呑めないから、まずは自由席の4号車に乗ることにする。悠々、ワンボックスを確保、早速酒盛りを始める。いつの間にか列車は動きだしていて、淀川に架かるトラス橋を轟音を立てて渡るところであった。

 新大阪、京都で若干名の乗車があったほかは、乗降はほとんどない。草津で複々線が尽き、車窓に闇が広がるだけのことが多くなった。1時03分、米原着。17分の小休止ののち、列車は北陸本線に進む。長浜を出てすぐ、車内灯が消える。デッドセクションだ。交流20KVの電気を受けて息を吹き返した列車は、峠に向けて再力行を開始した。

 2時01分、煌々と灯る水銀灯に照らされて敦賀に着く。長く、細く、曲がった敦賀駅のホームに人影はない。

 私はお酒が尽きたので、車内を探検しつつ今夜の寝場所に移動することにする。
 4号車の乗車率は25%程度だから、乗客は各自自分のボックス席に『沈没』している。一時は勝手に『寝台』をセットしてしまう客がいたので、その後シートにシリンダー錠が取り付けられ、今はそういう訳にはいかない。
 5号車はB寝台。乗車率は50%位であろうか。
 6号車はグリーン車。高い天井が印象的である。車端部は座席が取り外され、ミニラウンジになっている。ここでは4人が横になっていた。本来のグリーン客は7〜8名程。新潟までこれに乗るとB寝台より高価になるから、途中の北陸線沿線で下車するのかも知れない。
 7号車はA寝台である。ちょっと見た目にはB寝台と変わりがないが、通路の絨毯は厚く、ふかふかしている。床に並んだ靴から推定すると、中年おばさんの団体が大挙して乗っているようで乗車率は案外いい。
 8号車は私の車両だが、こちらは見事に空いている。通路には青いスリッパが置かれているだけで、靴は2足しか見えない。モハネ582、パンタの下には高さのある中段があることで知られるが、6つある『特等中段』はすべて浴衣がきちんと置かれたままであった。

 狭い梯子をよじ登り、6番上段、今夜の寝床に潜り込む。武生、福井、小松、金沢。急行列車は深夜にも律義な停車を繰り返すが、私はまったく記憶がない。こんなに良く眠った寝台車は初めてであった。

■蒲原鉄道 (写真と音声はこちら)

 長岡駅を出たところで目が覚めた。壁面の小窓から外を見ると、空はどんよりと曇り、あまりはっきりしない天気のようだ。8時10分、新津着。快速列車となって走り去る『きたぐに』を見送り、跨線橋を渡って1番ホームへ。

 新津は、信越本線、羽越本線、磐越西線が離合する日本海側の鉄道の要衝であった。1982年、上越新幹線が新津を通らずに開業し、今は日本海縦貫線を経由する一部の特急列車が発着するに過ぎないけれど、堂々たる駅本屋やホーム上屋は過去の栄光を今に伝えている。
 駅弁のホーム立ち売りも健在で、朝食の『雪だるま弁当』を買って、快速『あがの2号』に乗る。キハ110の3連。新型気動車は軽やかに加速し、新関で下り列車と交換。8時50分、五泉着。
 コンクリートの跨線橋を渡って一旦磐越西線の下りホームに降り、更にホームの切り欠き階段を降りて踏切で3番線を横断、蒲原鉄道の乗り場に行く。

 十数年前、蒲原鉄道がまだ加茂に通じていた頃、私は一度この電車に乗ったことがある。会津若松から、DD51の牽く客車列車で五泉に着き、ここから加茂までの全線に乗った。磐越西線の客車列車は消えたけれど、蒲原鉄道のホームはそのままである。
 ホーム上屋を押しつぶすように、新しい陸橋が線路を跨いでいる。半ば傾きかけたホームの待合室で弁当を食べ終わると、茶色とくすんだ橙色に塗り分けられた単行電車が到着した。10人ばかりの降車客は皆磐越西線への乗り換えのようだ。どこから湧いてきたのか、カメラと三脚を持った鉄ちゃん5人とともに電車に乗り込む。

 9時12分、『ジリリリリ』と本物の電鈴が鳴って、ドアが閉まる。運転士がマスコンを回すと、がくんと電車が動きだした。吊り掛けモーター特有の唸りが木張りの床下から聞こえ、窓枠ががたがたと音をたてる。手動加速であるらしく、速度がつくとともに運転士は徐々にマスコンハンドルを回す。ノッチが進むたびに小さなショックを感じる。

 ワンマン列車なのでお決まりのテープ放送があるかと思ったが、装置が壊れているのか、運転士はマイクを持って肉声の放送を始めた。もっとも、脳天まで伝わる振動とモーターの唸りで、その内容はまったく聞き取れない。急なカーブを曲がるとすぐに今泉。一旦停車するが、乗降客がいないのでドア扱いはしない。プワンと警笛を鳴らして出発した。今泉から先、電車は村松に向かって、一直線に伸びる線路を加速する。

 それにしても、このスピード感はどうだろう。貧弱なレールの上を並列・フルノッチで走る単行電車。速度計ではたかだか60Km/h程度しか出ていないけれど、とんでもない揺れだ。小さな車体はヨーイングを繰り返し、それと同期してかすれきった吊り掛けモーターの音に変調がかかる。徐々に速度をつけた電車は、ついには並走する乗用車を追い越してしまった。9時20分、村松着。

 村松駅本屋は、本社も兼ねた鉄筋のビルであった。
 今日は休日のためか、執務室にいるのは初老の駅員1人のみである。売店もあるけれど、開店休業状態。駅前に数台のタクシーが客待ちをしているけれど、こちらもお客の姿はなく、運転手は雑誌を読んだり、居眠りをしたりしている。駅に面した県道は頻繁に車が行き交うけれど、歩いている人は見かけない。
 大都市圏を除けば、今やクルマでdoor to doorの往来をするのがあたりまえの時代になっている。蒲原鉄道の存在は完全に忘れ去られているようにも思えた。

 折り返し電車が発車するまで、車庫の電車などを見て過ごす。除雪用とおぼしき電機やモハ+クハの2両編成もある。朝のラッシュ時には、今でも単行電車では足りない位の高校生が乗るのかも知れない。

 9時55分、村松発。いまきた線路を引き返し、10時03分、五泉着。新潟行きの普通列車で新津に戻る。車内は新潟に遊びに行く高校生らで案外混雑していた。

 新津駅では、若干の待ち時間があるので、駅前を探検することにした。さっき、駅のはずれの旧貨物ホーム跡地に多数のテントが立ち、何やら人だかりがしているのが見えたので、こちらに行ってみる。

 人込みをかき分けて進むと、これは素朴な一種の市で、近郊で収穫された農産物や魚介類が売られていることがわかった。
 野菜ではトマト、ナス、ショウガなどが目に付く。ほっかぶりをした農家の婆さんが、曲がったキュウリや泥がついたままの長葱を売っていたりする。魚を商う店では、大きな鮭のほか、名前もわからない小魚が何種類も置かれていた。若い人の姿はあまり見かけず、売るほうも買うほうもおっさん、おばさん主体である。こうした客を狙って、地味な色の衣料品を売る店、孫へのご褒美にあてるための駄菓子を並べている店もあった。
 粗末なテントが多いから、常時営業してる訳ではあるまい。栗を売っていたおっさんに訊いたら、名前は特にないのだけれど、新津では1と6がつく日にこうして市がたつということであった。

■新潟交通 (写真と音声はこちら)

 新津からはきみどり色のストライプが入った115系6連で加茂へ。駅前のタクシーで月潟駅に向かう。個人的にはタクシーなぞを使うのは潔しとしないが、月潟駅に向かう公共交通機関は皆無であるからやむを得ない。

 タクシーは弥彦山を遠望する越後平野を快走、信濃川を渡り、小さな集落に入った。『月潟商店街』という看板がかかったアーチをくぐる。『しもた屋』風の民家がほとんどで、営業している店はわずかしかない妙な商店街である。そんな寂れた商店街が尽きたところが月潟駅であった。

 新潟交通は、中ノ口川の左岸堤防沿いに敷設されているので、駅舎は堤防の『中腹』にある。階段を上って無人の改札を抜けると、ちょうど東関屋方から単行電車が到着するところであった。レールが剥がされた燕方を振り返ると、10人くらいの鉄ちゃんが三脚を立て、この列車の到着シーンを撮影しているではないか。貴重な映像を撮ってたら、突然妙な男がファインダーの中に現れてさぞ迷惑しているのではないかと恐縮した。もっとも、こちらも正当な理由があってホームに立ち入ったのであるから、謝罪する必要なぞないはずだが。

 11時45分、10人あまりの鉄ちゃんと私だけを乗せた単行電車が月潟駅を出発した。ワンマンカーだが、今度は放送テープもちゃんと回る。運転席直後のシートで車窓見物。片持ち式の木柱が並び、へろへろの線路が続いている。写真集などで見る、昭和30年代のローカル私鉄そのままの光景だ。吊り掛けモーターの唸りと10mレールのジョイント音がなおいい。たまに現れる交換駅の配線は、まるで模型のレイアウトのようだ。
 各駅の駅舎は、いずれも創業以来そのままと見受けるくすんだ木造が多い。廃止を前に、余計な支出は一切しませんぞ、といった感じである。もっとも、全線CTC、車両も良く見ればTASに列車無線完備である。安全面では、それなりのカネをかけてきたようだ。

  それにしても、この列車の運転士はサービス精神おう盛だ。

 痩せた初老の運転士だが、沿線で母に抱かれて手を振る幼児がいれば、かならず手を振り返す。プワンと警笛で挨拶することもある。

 ある駅で、後部の乗車口付近に座っていた老人が下車しようと立ち上がった。この駅のホーム出口は列車の後ろ側である。本来ならば車内を最前部まで歩き、料金を払ってから下車してホーム出口に行かねばならない。ところがこの運転士、『お爺ちゃん、いいよ。』とマイクで声をかけ、列車が止まると後部乗車口に駆け付け、運賃を受け取り、老人の手をとって降車を手伝った。そのあと走って運転席に引き返し、『お待たせしました』と放送してノッチを入れた。

 あと半年あまりで、この電車は消え、あの運転士は職を失う。新車の代行バスに、こんなサービスは期待できるであろうか。あのお爺さんは、高いバスのステップを、ひとりで無事に上り下りすることができるであろうか。

 巨大な高速道路の高架を身を縮めるようにしてくぐると、沿線には新しい住宅が目立ってくる。乗客も増えて、鉄ちゃんの姿は目立たなくなった。12時24分、真新しい駅舎の東関屋着。

■信越本線 (写真はこちら)

 古町・万代橋を経て新潟駅に向かうバスは、列車に連絡して運転されている。構内で写真を撮っていた私は連絡バスに乗り遅れてしまい、仕方なく県庁前経由の新潟駅南口行きに乗った。

 巨大なビルに生まれ変わった県庁をまわって、カー用品店などが並ぶ通りを経由、13時すぎに新潟駅南口、新幹線ホームがあるほうに着く。駅前広場と新幹線ホームは長い陸橋で結ばれている。陸橋の下は駐車場で、新幹線開業当時は側線があったらしい。長い自由通路を歩いて本屋側に出たら、見覚えのあるバス乗り場が見えてきた。

 しばらく時間があるので、駅ビル地下の『じゅらく』で昼食。新潟−じゅらく−中華という単純な連想をした私は、若干の期待をもって『チャーハンセット』を注文したが、とくにどうということもなく、ちょっとがっかりした。
 先の大雨で上越線は単線運転となっているはずだが、構内放送は特にない。新幹線が動いているから、関係ないのかも知れない。掲示によれば、普通列車の運転は1日1往復、長岡発13時42分の水上行きのみとのことであった。

 14時ちょうど、115系6連で新潟発。上沼垂の車両基地を左手に見て、信越本線を走る。今朝乗ってきた583系が昼寝しているのが見える。途中区間がちょん切られた信越本線だが、それにしても線路際のキロポストの数字が小さい。どうやらこのあたりのキロポストは直江津起点で設置されているようであった。

 越後石山、亀田、荻川と乗客がどんどん減って、今日3回目の新津を出るときには乗車率は25%位になった。黄金色に輝く水田が果てしなく続き、その向こうに弥彦山が霞んでいる。田んぼの1/4位は取り入れが終わっていて、コンバインで収穫作業をしている場面も数多く見かけた。米どころなのだなと思う。

 長岡では跨線橋を渡って高田行き快速に乗り換える。毎日運転の臨時列車。165系を期待したのだけれど、ホームで待っていたのはさっきと同じ115系3連であった。柏崎を過ぎると、右の車窓には日本海が広がる。今日のハイライト区間のひとつだが、霞がかかって水平線が良く見えない。海が見える時間は短く、すぐにトンネルに入ってしまう。犀潟でほくほく線が合流し、直江津着。

 直江津駅の古い駅舎は取り壊され、プレハブの小屋となっている。橋上駅は骨組みだけが完成していた。跨線橋を渡って1番乗り場に移動する。米原方からEF81に牽かれた車扱い貨物が到着。化成品を積んだ様々なタンク車が連結されている。最近は滅多に見ない黒い無蓋貨車もある。ある車両の伝票を見たら、行き先は二本木、発駅は安治川口となっていた。

■北陸本線 (写真はこちら)

 16時31分、米原方から541Mが到着。5分の停留ののち、570Mとなって折り返す。419系3連。昨日乗った特急寝台電車の『成れの果て』である。同業他社では姿を消した車両だが、JR西日本ではまだまだ現役だ。天井は高いが窓は小さく、狭苦しい感じがする。モハ418には床置き型の冷房装置が残されていて、車内に『門』があるみたいだ。けれども、ボックスシートに座れば結構楽で、私の好きな車両のひとつである。

 直江津を出ると、すぐに長いトンネルに入る。複線化にあたって作られたトンネルで、僅かな明かり区間に駅があるような感じである。筒石駅は完全にトンネルの中の駅。一度降りたってみたいと思っているが、未だにその機会はない。

 糸魚川で雷鳥42号、泊ではくたか14号をやりすごす。雲が切れたと思ったら、ほおずきの実のようになって富山湾に沈む太陽が姿を見せた。長かった一日。けれども、私の旅は終わらない。18時42分、富山着。

 富山からは413系3連。両開き2扉の近郊型交直流電車である。古い急行型車両の生まれ変わりらしい。『福岡』、『倶利伽羅』など、特急列車では決して観察できない駅名標を見ながら石川県に入る。金沢では9分止まって雷鳥44号を退避。かなりくたびれた485系。小松を過ぎると20%くらいの乗車率となり、21時19分、福井着。

 ほどなくサンダーバード46号が入線。上り最終の特急で、空席も目立つ。このまま普通列車に乗り続けたのでは吹田へは帰れないから、この最終特急に乗ることにする。今日一日、オンボロ電車にばかり乗り続けたから、681系はまるで新幹線のようだ。床下からVVVFサウンドがかすかに聞こえ、あっという間に最高速度に達する。小駅はもちろん、鯖江、武生といった駅もフルスピードで通過。余程目をこらしていないと駅名標を読むことすら難しい。

 北陸トンネルを走り抜けた681系は、やや速度を落として敦賀を通過。疋田ループを駆け上がる。眼下に敦賀の街の明かりが点々とともっているのが見えた。

 22時45分、京都着。221系新快速で高槻。黄色い103系・新三田行きで23時15分すぎ、岸辺に着いた。

Back


Sep 12 1998 (C)H.S.E. 2001.10.9 改訂