急行だいせんと山陰最果て鈍行旅行(1)


大阪駅1番ホームで出発を待つ705レ・急行だいせん

 夏休みが終わった最初の週末、余命いくばくもない客車急行だいせんと山陰線試乗の旅にでかけました。

●旅程(1999年9月4日〜5日)

大阪2255-(705レ〜3735レ・急行だいせん)-0723出雲市0830-(3121D・快速石見ライナー)-1110益田1126-(573D)-1330長門市1335-(637D)-1338仙崎1354-(636D)-1358長門市1403-(975D)-1509小串1512-(875D)-1551下関1650-(8レ・特急あさかぜ)-1746小郡1815-(特急ひかり128号)-2041新大阪

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■急行だいせん(1)

 1999年9月4日22時35分、厳しい残暑が続く大阪駅1番ホーム東京方に、2つ目玉の前照灯が現れた。

 第705列車・下り急行だいせん出雲市行きの入線である。周囲を威圧するエンジン音を響かせて、DD51が目前を通り過ぎる。あとに続くのは、軽やかなジョイント音の14系15型寝台車3両、そして、12系座席車2両である。
 2年前の木次線試乗時と同じ夜行列車の入線風景だけれど、今晩はカメラやビデオを持った鉄ちゃんがうようよしている。
 客車急行だいせん。関西と山陰を結ぶ伝統ある夜行客車急行列車だが、99年秋のダイヤ改正で、ついに気動車化されることになった。今回は、JR西日本最後の"夜汽車"に別れを告げるための、いわば『お別れ乗車』でもある。

 過去何回かの試乗時は、いずれも自由席であったが、今回はあらかじめB寝台券を準備しておいた。私に指定されたのは、1号車13番下段。スハネ15、床下のエンジン音がちょっと気になるけれど、私にとっては十数年ぶりの2段・開放式寝台車の一夜である。

大阪にて

『赤鬼』(大阪にて)

 1970年代、ばく大な人件費の削減に悩んでいた当時の国鉄が設計したこの車両は、最初から極めて人手のかからない設計となっている。ベッドはつくりつけ。寝台/座席の転換は、唯一、窓際のハシゴを畳むだけの操作である。今晩の私の寝床にも、枕と浴衣、毛布、シーツが置かれているだけで、ベッドメークは乗客各自の責任で行うこととなっている。何とも味気ないと評する向きもあろうが、反面、自分の好きなときまで起きている自由もある。カーテンを明け、窓のブラインドを上げれば、容易にお酒が呑める。

 気がつけば、列車はゆっくりと動いている。華やかな大阪の街のネオンが流れ去り、高速道路と並行して、淀川を渡る。客車独自のチャイムが鳴り、ゆったりとした肉声の車内放送が始まった。

福知山にて

福知山にて

 尼崎を出ると、列車は高架に駆け上り、東海道上り線をオーバークロス、福知山線に乗り入れる。宝塚を過ぎると、列車は新しい複線トンネルの中を轟音をたてて突っ走る。
 すぐ近くの機関車寄りのデッキに行ってみる。貫通扉の向こうには、切り抜き文字のナンバープレートが揺れ、屋根上の排気筒からは、猛然と黒煙を吹き上げている。米子まで、ひと晩じゅう我々の乗った客車を引っ張ってくれる『赤鬼』、DD51である。

 0時10分、大阪通勤圏の最果てとも言える篠山口を出ると、突然ローカル色が強くなる。ロングレールが尽き、単調なジョイント音が続く。わずかな明かりが漏れる民家。踏切の赤い警報灯が、誰もいない道路を交互に照らしている。列車は既に、寝静まった丹波の里を走っているのだ。

 1時01分、多くの分岐器に身をよじらせて、列車は福知山に到着した。
 かつては、リヤカーを牽いた駅弁屋さんがいて、夜食の補給やアルコールの買い足しに極めて好都合であったが、今、その姿はない。駅弁屋さんどころか、鉄道員の姿も見かけない。たった1本の夜行列車のために、割増賃金を払ってまでも職員を配置する余裕は、いまのJRにはないのであろう。代わりに、やはりここでも、カメラやビデオを持った鉄ちゃんが誰もいないホームを右往左往していた。

寝台車の夜がふける....

通路仕切の色つきガラス

 福知山を出たところで、私も横になることにした。竹野での上りだいせんとの交換も、餘部橋りょうも、私は夢のなかで過ごした。

続く


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