医療情報の公開について(1)

 診療録、つまり医療機関で作成されるカルテの公開が法制化されそうである。

 医師会サイドがいろいろ文句(?)をつけて、最初のうちは単なる努力目標的なものになりそうだが、とにかくカルテは公開が原則ということが明示されるのは画期的なことだと思う。

 医師会側がカルテ公開に難色を示す最大の理由は、もちろん医者が負ける医療訴訟の増加を恐れているからである。逆に患者側はカルテ公開を通じて医療ミスを指摘し、その権利を守ろうとする意識が強いようだ。実際、マスコミの論調のその線に沿ったものが多く、患者側識者のコメントとして、医療訴訟に携わる弁護士の意見が紹介されてたりする。

 第一線で医療に携わる私としては、医師会の懸念は十分理解できる。

 医療はプロセスであり、結果がすべてではない。しかるに、ことの経過に詳しくない第三者(あるいはそれに近い立場の人。もちろん、マスコミも含めて)ほど、結果のみでモノゴトを評価しがちである。結果良ければすべてよし。逆に好ましからざる結果が出れば、そのプロセスの子細を点検し、重箱の隅をつつくような評価をする。
 患者が死亡したとき、共に病気と闘ってきた家族から感謝の言葉を頂いたにもかかわらず、臨終間際になって初めて病院にやってきた初対面の親族から、『何でこんなに急に死んだのですか!?』という半ば非難めいた質問を受けた経験のある医者は少なくないはずである。

 ところで、社会一般からは最先端の科学を駆使していると思われがちな現代医療だが、その現場では今でも職人芸的な『勘』や『経験』が幅を効かしているのが実情である。駆け出し研修医が目を皿のようにして教科書を読み、検査をしまくっても診断不能であった症例が、経験豊かな臨床医にかかると、聴診器ひとつで診断がついてしまうということは少しも珍しくない。この場合、前者は第三者にも明らかな数字となってカルテに残るが後者はあいまいな記載にならざるを得ない。
 人間には誰にもミスはつきものだが、万一医療過誤が疑われて裁判になったときのことを考えると、あいまいな記録しか残らない後者のほうが圧倒的に不利である。要するに経験豊かで腕のいい医者より検査をしまくるヘボ医者のほうがトクなわけだ。

 これは余談であるが、『検査漬け』と酷評される現代医療の手法も、実はこうした点が影響している面が大きいと思う。
 つまり、検査をして異常がないことを数字としてカルテに残せば、それは絶対的な証拠となる。ところが、医師が問診や聴診、触診などで得た所見はあいまいな記録にならざるを得ず、信頼性を疑われてしまう。かくて、病気を診断するためではなく、病気の可能性を否定する目的の検査が横行するのである。

 話が脇にそれてしまった。

 ともかく、モノゴトのプロセスの透明化は時代の要請ではあると思うが、現代科学が十分に解明しきっていない事象にまで無理やりその原則をあてはめることには、かなりの困難や矛盾が伴うこと留意しないといけないと思う。

(1998.6.20記)


続く