マイテ49 2 (津和野駅)


小郡駅で


展望デッキ寄りの客室


出入り口の表示
※重箱の隅をつつくようだが、このフォントは興醒め!!


展望デッキ反対側の客室
※窓は北海道型車両のような二重窓。静粛性を確保するためか?


空調吹き出し口
※現役当時から暖冷房完備である。


製造銘板
昭和13年鉄道省大井工場製である。

SLやまぐち号

 山口行きの普通列車が出ると、小郡駅1番ホームは華やいだ雰囲気になる。一見して観光客とわかる乗客の姿が徐々に増えてきた。

 やがて、C56 160による推進運転で、SLやまぐち号の編成が入線。多数の観光客が機関車に駆け寄り、記念撮影が始まる。
 C56は、ローカル線向けの客貨兼用関車である。派手さはないけれど、非常に愛らしい表情の機関車だ。

 今度は主役の機関車・C57 1がバックで入線。数多くのギャラリーの視線を浴びながら、2両の蒸機の連結器ががっしりと手を組んだ。

 C57は、亜幹線の急行列車用に設計された機関車である。
 急行という列車種別は、現在のJRでは死語に近い。けれども、1960年代まで、多くの線区では、1日数本しか運転されない優等列車のことであった。だから、最初から晴れ舞台に立つことを期待されて生まれたC57は、華やかさにおいて、C56とは格段の差があると思う。
 細目のボイラと大径動輪。黒い煙と吹き漏れる白い蒸気。機械油で磨かれたロッド類は艶めかしく光り、空気圧縮機のピストンがゆっくりと動く。いま、目前にある活きた蒸気機関車 C571は、身の毛がよだつほど美しいと思った。

マイテ49 2

 2両の蒸機の次は、マイテ49 2。1938年、鉄道省大井工場製の一等展望車。戦前の活躍は短いが、1950年代には東海道線の花形特急列車"はと"の最後尾を飾った車両である。

 現在のJRには、普通車とグリーン車の2クラスしかないが、1872年の鉄道開業以来、旧国鉄の車両は3クラスに別れていた。運賃はもちろん、特急・急行料金も3つの階級に別れていたのである。
 鉄道を利用して旅行すること自体が贅沢だった時代に、三等の数倍もの運賃・料金を払って移動できるのは、極めて限られた階層の人たちだけであった。

 往時の一等車がどれ程スゴイものであるか、その料金の一例を示す。
 1958年当時、マイテ49(特急つばめ・はと)に乗って東京から大阪に行くには、特別急行料金2,880円と旅客運賃4,760円、合計7,640円を要した。鈍行列車(三等)だけで行けば990円だから、実に7.7倍である。急行列車(三等)で行っても1,340円で、特別急行の展望車に乗るにはその5.7倍のお金を払わねばならなかったのだ。所要時間は7時間30分であった。
 ちなみに現在東京-新大阪間をのぞみグリーン車で行けば、運賃・料金は19,870円である。これは、鈍行乗り継ぎの約2.3倍、ひかり自由席の約1.5倍にしか過ぎない。そして、所要時間は2時間30分。往時のちょうど1/3である。

 そんな夢の超豪華車両が、今日のSLやまぐち号に連結されている。フリースペース扱いで、やまぐち号の乗客ならば自由に乗車可能である。私は入線と同時に満席になると予想していたが、他の乗客は皆、車内をのぞき込むだけで、自席に戻ってしまう。確かに、分厚い絨毯が敷かれたニス塗りの車内は博物館の展示品のようで、白いカバーがかかったソファに座るのは少し勇気がいるかも知れない。
 私は最前部のソファに腰を下ろした。少々古ぼけた感じは否めないが、さすがに元一等車と思わせる座り心地である。

 10時37分、腹に響く汽笛が2回鳴って、出発。(SLやまぐち号の走行音はこちら)
 構内を抜けると、列車はぐんぐん加速していく。予想外の俊足である。速度は60〜70Km/hは出ていると思う。
 私が乗るマイテ49 2は、TR73という特殊な台車を装備している。乗り心地を向上するために、ひとつの台車に車軸が3本、車輪が6つついているのである。特有のジョイント音を期待したが、車内は恐ろしく静かで、音はよくわからない。さすが、元一等車である。

 目の前の展望デッキ寄りは、全面ガラス張り(何と二重ガラスであった!)で、C56 160のお尻が揺れるさまが良く見える。炭水車に盛られた石炭がバラバラと崩れるのも見えた。展望車は景色を眺めるために列車の最後尾に連結されるものだが、SLやまぐち号に限っていえば、この位置がふさわしいと思う。

 ところで、山口線でC57 1が走り始めて、今年で23年目になる。若い人にとっては、ものごころついた頃から蒸機が走っていた訳で、地元の人々にはもうすっかりお馴染みのはずだが、それでも注目度は抜群だ。
 列車と並走するクルマのドライバーは、皆こちらを見ている。スーパー駐車場の警備員もこちらを見ているし、農作業の手を休めて列車を眺める人もいる。母親に抱かれて列車に手を振る幼児の姿はいたるところで見かけた。『人寄せパンダ』としての蒸機の威力は、絶大なものなのであろう。

 山口駅を出た列車は、やがて、25パーミルの上り勾配にさしかかる。それまで快速で飛ばしてきた列車が、とたんにのろくなった。蒸機は勾配に弱い。2両の蒸機は黒煙を吹き上げ、力闘する。その様子を狙って、多数のカメラマンが三脚を構えている。

 汽笛が鳴って、トンネルに突入。列車を包む白い蒸気が、時折オレンジ色に鈍く光る。C56がボイラの焚き口を開けたとき、石炭の炎が反射するのである。広い窓を持つマイテ49ならではの幻想的な眺めであった。

 トンネル内を走っているときは感じなかったけれど、明るい場所に出ると、車内に煤煙が漂っているのがわかった。冷房完備の一等車ですらこうなのだから、かつての蒸機列車の三等車なぞは、おおよそ快適とは言いがたい環境だったのだろうと思う。

 サミットを過ぎると、列車は絶気のまま、勾配を駆け下る。
 地福駅で、お約束の休憩タイム。多数の乗客が、機関車の横で記念撮影を始める。私が乗るマイテ49にも羨望の視線が注がれた。

 12時39分、津和野着。添乗員に誘導された団体客が足早に観光バスに乗り込む。先頭の機関車を眺める余裕なんかない。『2泊3日、湯田温泉と萩・津和野・秋吉台、SL列車の旅』なんてパッケージツアーだろうが、あれでは蒸気列車に乗った実感なぞないのではないか。


続く

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2001年6月18日 制作 
2003年8月7日 訂補