晩秋の東北旅行---青函連絡船(1)


旧青函連絡船・八甲田丸(青森港・青森桟橋跡)


可動橋


ブリッジ


機関室


車両甲板に展示された控車

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

 酸ケ湯発8時50分のJRバスで青森に戻り、旧青森桟橋跡地に係留されている青函連絡船を見学する。

 アスパムで職場への土産を買い、青森駅方面に向けて歩くと、見覚えのある船影が見えてくる。旧青函連絡船・八甲田丸である。1988年3月13日、青函連絡船下り最終便に充当された船だ。
 煙突には、赤いJNRのロゴが入り、現役当時と同じように、船首を函館に向け、今にも出港するようにも見える。桟橋側には、貨車を連絡船に積み込むために使用した可動橋も1基残されていた。

 500円ナリの入場料を払い、見学。

 かつて、座席があった旅客甲板は大幅に改装され、連絡船の歴史などに関する資料が展示されていた。青いモケットの座席と黄緑色のじゅうたんが敷かれたマス席(私が好んで陣取った場所だ!)が見当たらなかったのにはがっかりしたが、それでも現役当時の船内の様子が目に浮かんできた。

 その先の順路は、現役当時、一般旅客は立ち入れなかった場所であるから、懐かしいというより、新たな発見の連続であった。

 まずは、ブリッジを見学。各種の制御器が並んでいる。

 八甲田丸をはじめとする青函連絡船の客貨船("津軽丸型", 1964年から66年にかけて新造)は、以降のカーフェリーなどのモデルともなった自動化船である。エンジンをはじめとする主要機器をブリッジからレバーひとつで遠隔操作できる。

 当時の船舶は、船長の指令をテレグラフという指示器で機関室に伝え、機関員がこれを見て実際にエンジン(タービン)出力を加減するのが一般的であったらしい。東京の指令室から、博多や盛岡のポイントを動かしている現在からすれば、恐ろしく原始的と言うか、まどろっこしい方法であるが、とにかく、当時はそんな人手を要する方法で巨大な船を動かしていたのである。

 しかし、こんな悠長なやり方では、1日に何度も入出港を繰り返す連絡線としては、非常に効率が悪い。"津軽丸型"は、可変ピッチプロペラ、バウスラスタなど数々の新機構で、比較的短い航路をピストン運行する体制を実現したのである。

 ブリッジのすぐ後ろにある無線通信室も見学することができた。
 青函連絡船の通常の航路は、現在ならばVHFでじゅうぶんな距離だが、大げさにも中波・短波の無線機が鎮座している。無線電信を使用して、函館や青森の国鉄海岸局と交信していたようだ。

 そのあと、エレベータ(---恐らくは、展示館として改装した際に設置したもの)で車両甲板に降りる。
 車両甲板には、4線のレールがあって、キハ82をはじめ、郵便車や控え車など、連絡線にゆかりのある車両が航送状態で展示されている。
 線路の終端には、固定された自動連結器がある。車両甲板に収容された貨車の一端は、この連結器に連結され、更に各車両をフックで甲板に固定して、車両の移動・横転を抑制していたらしい。
 船側の連結器の下に、ブレーキ管があったのも興味深かった。着岸後、すばやく車両を引き出すために、船舶側で準備された圧縮空気を込めたのだろう思う。

 そのあと、今度は機関室を見学。巨大なディーゼルエンジンがいくつも並んでいる様子は圧巻である。
 青函連絡船は、複数のエンジンを積んでおり、通常の航海では、全部を稼働させるわけではなかったのだそうだ。残りのエンジンは言わば『予備』で、順番に休止させ、航行中に点検整備を行っていたという。こうすることによって、ドック入りすることなく船を動かし続けることができる。効率最優先の驚くべき機構である。
 ブリッジの真下部分に機関制御室があったが、各種計器が整然と配置され、まるで工場の中央制御室のようであった。

 もっともっとゆっくり見たかったけれど、下り列車の時刻が迫っている。

 後ろ髪を引かれる思いで懐かしい八甲田丸をあとにした。

続く

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2001年11月10日 制作 
2001年11月21日 修正