晩秋の東北旅行---寝台特急日本海に乗って(2)


『日本海3号』(敦賀駅)


敦賀駅で


カニ24(敦賀駅)


機関車交換(1) (敦賀駅)


機関車交換(2) (敦賀駅)


寝台特急の夜はふけて...

深夜の機関車交換

 京都を出た『日本海3号』は、山科から湖西線に入る。1974年に開業した湖西線は、全線複線電化・踏切皆無の高規格路線である。大阪から北陸方面へのショートカットを目指して建設されたが、宅地開発が進んだ近年は、新たな通勤路線として注目を浴びている。線路の両側に、たくさんの一戸建て住宅が見える。

 近江今津を過ぎると、住宅の明かりもまばらになって、京都・大阪の通勤圏を脱したことがわかる。時折見える街灯と国道162号線を行くクルマのヘッドライト。その先には、琵琶湖が漆黒の闇となって広がり、更にその遥か向こうに彦根・長浜の明かりが見えている。

 近江塩津で北陸本線と合流し、長いトンネルで分水嶺を越える。ここから終点青森まで、列車はその名のとおり、日本海に沿って走ることになる。
 敦賀到着を前にして、おやすみ放送が流れた。明朝鶴岡到着まで、案内放送は休止。車内灯も減光されて、乗客は眠りにつくことになっている。

 水銀灯に照らされた幾条ものレールを選ぶようにして、『日本海3号』は敦賀駅に到着した。ここで列車は、大阪発20時51分の富山行き最終特急『サンダーバード49号』に進路を譲るとともに、機関車を交換するため、17分間停車する。

 近年、都市間連絡の特急電車は増発に増発を重ね、早朝から深夜まで、ひっきりなしに走るようになった。鈍足の長距離寝台特急のあとから、"昼間"の特急電車が迫ることも珍しくない。特急が特急に抜かれるというのはあまり好ましい事態ではないでの、JR各社は、その処理にはいろいろ苦心しているようである。
 北陸線(下り)では、ここ敦賀駅で、全ての夜行寝台特急(『日本海』2本と臨時の『トワイライトエクスプレス』)が機関車交換を兼ねて長時間停車し、後続の特急電車をやりすごすダイヤになっている。

 薄暗いホームの直江津方では、大阪から列車を牽引してきたEF81 45が早々に切り離された。『サンダーバード49号』と入れ替わるように、今度は108号機がゆっくりと接近、連結器ががっちりと噛み合う。機関士と検車係員、たった2名による孤独な作業であった。

 22時19分、敦賀発。列車はすぐに長いトンネルに入る。1962年6月に開通した全長13,869mの北陸トンネルである。

 1972年11月6日未明、このトンネル内で、大阪発青森行き下り夜行急行『きたぐに』の食堂車から出火し、乗客・乗務員あわせて30名が煙に巻かれて死亡する大惨事が発生した。いわゆる『きたぐに火災』である。

 当時の国鉄は世論の強い非難を浴び、列車火災防止に本腰を入れることになる。

 たとえば、私の乗っている寝台客車。12系・14系では、列車の分割併合に便利なように、数両おきに客車の床下に発電用エンジンを搭載していた。けれども、これは火災の原因になるとして、再び電源車方式を採用してできたのが24系である。
 『きたぐに火災』では、乗務員はマニュアルに従って列車を停止させ、火元車両を切り離そうとした。しかし、すぐに架線が溶断してして送電不能となり、万事休してしまった。これを教訓に、トンネル内での火災の場合は、そのまま出口まで突っ走ることになった。国鉄型車両の非常弁に『トンネル内での火災の場合、使用しないでください』との注意書きがついているのは、そのためである。更に、車両間の延焼を防止するため、貫通扉の窓ガラスは、熱に強い金網入りとすることになったし、暗やみでの事故を想定して、各車両で非常用のサーチライトが装備された。

 かくの如く、『きたぐに火災』は日本の鉄道史に名を残す大事故であった訳だが、これ以降、幸いなことに、何十人もの死者を出す鉄道車両火災事故は発生していない。

 北陸トンネルを抜けた列車は、福井平野を北に向かって快走する。福井駅を出たところで、私もベッドに潜り込んだ。休暇を捻出するために忙しく働いてきたせいか、私は一気に眠りに落ちたようである。

続く

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2001年11月10日 制作 
2002年1月11日 修正