晩秋の東北旅行---寝台特急日本海に乗って(1)


特急『日本海3号』(大阪駅)


国鉄制式色の共演
『日本海3号』と『雷鳥47号』(大阪駅)


2段式B寝台


開放式A寝台


テールサイン

特急『日本海3号』青森行き

北への旅立ち

 大阪駅9・10番線は、もっぱら福知山線の到着用に使われる。
 到着専用だから、列車を待つ人はおらず、従って、売店なども少ない。大阪発青森行きの夜行寝台特急『日本海3号』は、そんな少しうらぶれた感じのホームから、1000Km余の旅に出る。

 10月31日20時07分、ローズピンクの機関車に牽かれた『日本海3号』が入線してきた。

 『日本海3号』に充当される車両は、JR東日本青森運転所所属の24系客車である。青い車体にステンレスの飾り帯が入っているのが本来の姿だが、車両によっては、ペンキで白線を入れたり、金色の帯が描かれているものもある。後者は、引き戸に改造されているから、かつて『北斗星』として活躍した車両に違いない。
 いずれにせよ、編成にはいまひとつ統一性がなく、かつて少年ファンの羨望の的であったブルートレインの華やかさは、既に消え失せてしまったかのように見える。

 信号機故障の影響で、この日はたまたま東海道線の上り新快速電車が9番線着発となっている。9番線側には通勤客の行列ができているが、10番線側は人影もまばらだ。わずかな乗客を乗せて、特急『日本海3号』は大阪駅をあとにした。

 淀川を渡って、新大阪着。ちょうど、西鹿児島行きの『なは』が発車するところであった。

 これから『日本海3号』がたどる旅路は、通称日本海縦貫線とも呼ばれる。路線名で書くと、東海道本線-湖西線-北陸本線-信越本線-羽越本線-奥羽本線。"本線"がずらりと連なり、その重要性を伺い知ることができる。
 東北・北海道と関西を直結する日本海縦貫線は、北前船以来の伝統をもった運転系統で、古くから客貨双方に多数の直通列車が設定されている。現在も寝台特急『日本海』2往復が走り(ちなみに、『○○1号』と言った号番号がつく夜行列車、つまり、2往復以上走るものは、この『日本海』と『北斗星』のみである)、直通のコンテナ貨物列車も多数のスジが引かれている。
 けれども、並行する新幹線はなく、新潟-秋田間に至っては、一部を除いて高速道路すらない。

 これは、日本の新しい交通体系が、すべて東京を中心として形成されているからだと思う。日本海縦貫線のような、東京から地方という流れに無関係な路線は、未だに『新幹線以前』の状態に置かれているのである。(事実、この春まで、大阪-青森間を13時間以上かけて走る特急『白鳥』が走っていた。1961年、全国の主要幹線に設定された特急の、最後の生き残りであった。)

通勤電車と並走

 新大阪駅を出たところで、夜行列車特有の長い案内放送が始まった。
 放送は、この列車に車内販売や自動販売機がないことを告げている。列車が走りだしてからそんなことを言っても仕方ないと思うが、乗務員への問い合わせが少なからずあるのであろう。私は、予め調達してあった駅弁で、遅めの夕食を摂ることにした。

 まずは缶ビールの栓を抜き、ゴクリと飲み干す。

 連続4日の休暇を取ったがために、週の前半は目の回るような忙しさであった。勤務医の仕事は、かなりの部分が個人的な裁量に任されている。休みをとったからと言って、その分の仕事を同僚が代行してくれる訳ではない。自分がやるべき仕事の量は、休暇の有無にかかわらず同じであり、休暇を取れば、その前後の仕事の密度が濃くなるだけだ。
 4日も休もうと思うと、仕事の偏りは尋常でない。今日も昼すぎに急患が飛び込み、危うく旅行計画がパーになるところであった。

 けれど、無事『日本海3号』の乗客となった今となっては、そんなことはどうでも良い。多忙な日々は、わい雑な大阪の街とともに車窓の彼方に消える。

 『日本海3号』は、京都までの間、複々線の外側を走るから、時々、内側線を走る緩行電車と抜きつ抜かれつの関係になる。缶ビールが並んだ車窓の向こうから、つり革にぶらさがったサラリーマンがこちらを覗きこむ。
 あちらは、数十分後にはいつもの我が家に帰り着く。明日は再び満員電車で出勤であろう。『日本海3号』の私が目覚めれば、車窓には晩秋のみちのくの景色が広がっているはずである。

続く

この項先頭に戻る


Copyright by Heian Software Engineering (C)H.S.E. 2001 Allrights reserved.
2001年11月10日 制作 
2001年11月21日 修正