私鉄特急乗り継いで...

立山黒部アルペンルート


21000系アーバンライナー(近鉄難波駅)


デラックスシート車内


畝傍山


全長5,652mの新青山トンネルに突入!


交代準備


カーテンで目隠し


それでもめげずに隠し撮り!?


交代完了


近鉄名古屋に到着

近鉄アーバンライナー

へそ曲がり行路

 大阪から富山に行くには、北陸線の特急列車に乗るのが常識である。
 けれども、今回は名鉄新名古屋始発の高山線特急・北アルプスにも乗ろうというヘソ曲がりな旅行であるから、一旦名古屋に向かうことになる。大阪、ことに私が住む北部地域から名古屋へは新幹線利用が順当だ。しかし、私は更にヘソを曲げて近鉄特急に乗ることにした。新幹線から北アルプスに乗り継いでも、その特急料金が割り引きにならないからである。

 休日のターミナル駅は、いつもと違う表情をしている。
 秋の行楽シーズンにはまだ少し早いのであろうが、リュックサックを背負った家族連れやスポーツ用具を持ったグループ客の姿が目に付く。特設切符売り場では、駅員がハイキング用の割り引き切符の販売に余念がない。売店には何種類もの駅弁がうず高く積まれている。
 どこか華やかな気分の近鉄難波駅地下ホームに、名古屋行き特急が出発を待っていた。

 近鉄アーバンライナーは、大阪難波と名古屋間を2時間強で結ぶ私鉄最速の特急電車である。幾多の有料特急列車を走らせる近鉄でも格別の存在で、21000系という専用車両が使われている。
 全席指定であるが、私は8号車のデラックスシートの特急券を準備しておいた。3列のゆったりしたシートが並ぶ、グリーン車相当の特別車両である。しかし、その料金は410円。JRのグリーン料金は、概ね特急料金と同額で敷居が高いが、コーヒー1杯強の値段ならばちょっと乗ってみようという気にはなる。さすがに、大阪の私鉄は商売がうまいと思う。

 数人の客を乗せて、定刻、近鉄難波発。かつてのターミナル駅である上本町を過ぎると、列車は地上に出て、鶴橋に着く。高架下は大阪でも有名な焼き肉屋の密集地であり、常にその匂いが漂っている駅である。が、さすがに午前9時すぎとあっては何の臭気もない。
 座席の半分近くが埋まって、鶴橋発。一般指定席車はグループ客の姿が目立つが、デラックスシート車は、一人で移動する男性の姿が目立つ。皆、この列車に乗り慣れた様子である。

 布施を通過するところで、添乗の女性車販員が紙おしぼりを配って歩く。
 以前はほとんど全ての特急列車で行われていた近鉄特急独自のサービスであるが、数年前からは、このアーバンライナーなどごく限られた列車だけとなっている。

 車窓には、大阪近郊の住宅地が続いている。車両基地がある高安付近までは、文化住宅と呼ばれる木造モルタルの古いアパートが目に付く。そこから先は、私が小学生の頃は一面の田畑であったところで、今は小奇麗な一戸建てやしゃれたマンションなど多い。都心から郊外に行くに従って、ここ数十年の住宅建築の進歩を学ぶことができる。

 右手にJR関西本線が寄り添ってしばらく走ると、ガーター橋で大和川を渡る。近鉄電車の有名な撮影ポイントで、雑誌などで繰り返し作品が紹介されている。1960年代の写真を見ると、緑豊かな郊外といった趣の場所だが、今では住宅に埋め尽くされた感がある。

 家並みが途切れたと思ったら、列車は大阪と奈良を隔てる生駒葛城山脈をトンネルで越える。奈良県側も大阪と同じような近郊住宅地が延々と続く。畝傍山や耳成山は、家並みの向こうにかくれそうになっている。なお、大和三山の残りひとつである香久山は、背後に山地が迫っているので、車窓から一見したところでは判別が難しいと思う。

急勾配を駆け抜ける

 大和朝倉を過ぎると、列車は33.3パーミルの急勾配にさしかかる。一部の例外を除けば、日本の鉄道で許される最もきつい勾配である。かぶりつきに立って前方を眺めていると、少し大げさに言えば、急坂が壁のようにそそり立っているようにも見えた。けれども、アーバンライナーは意に介することなく、120Km/hの高速でぐんぐん勾配を駆け上っていく。
 近鉄大阪線が全通したのは、1930年のことである。関西から伊勢神宮への参拝客輸送をもくろみ、当初から電車運転を前提としていたので、速度制限のあるカーブは非常に少ない。その代わり、JRの幹線では考えられない急勾配が連続する。当時の参宮急行電鉄(近鉄の前身である大阪電気軌道の子会社)は、抑速電気制動を装備した名車・2200系を投入し、大阪-伊勢間を2時間強で結んだ。その頃の省線(現在のJR)は、蒸気列車があたりまえ。空気ブレーキと自動連結器への付け替えがやっと終わって、高速化への下準備が出来た頃であったから、当時の近鉄電車は、現在の新幹線以上のインパクトをもったハイテクのかたまり・画期的な乗り物であったに違いない。

 榛原を過ぎると、列車はアップダウンを繰り返しながら奈良-三重の県境を超える。上本町からここまで、通勤電車ならば約1時間弱。やはり宅地開発が進んでいて、同じような一戸建て住宅が整然と並んでいる。ただ、土地に余裕があるせいか、どの家の敷地も、こころなしかゆったりしている。1975年に付け替えられた新線トンネルで布引山地を越え、列車は伊勢平野に向かって急勾配を駆け降りる。

 私はふたたびカブリツキに陣取った。走行中の運転士交代を見るためである。
 このアーバンライナーには、あわせて2名の乗務員が乗務している。運転士と車掌である。けれども、実は2人はともに運転士兼車掌なのだ。名阪間のほぼ中間、具体的に言うと伊勢中川駅構内の短絡線を走行中に、運転士と車掌が交代する。つまり、難波出発時の車掌が運転士となり、これまでハンドルを握っていた運転士が車掌に化けるのである。
 自動車と違って、列車はレールに導かれて走る。従って、誰かが前方を注視し、緊急停止のためのブレーキ弁さえ確保しておけば、運転席が空になることが必ずしも危険につながる訳ではない。けれども、走行中の運転交代は危険と誤解されるためであろうか、交代地点が近づくと、カブリツキにはカーテンが引かれ、目隠しがなされた。数分して再びカーテンが開くと、手品のように運転士が交代していた。

伊勢平野を快走

 運転士が交代したあと、列車は名古屋に向けて伊勢平野を快走する。

 江戸橋から先、桑名までは昭和初期に伊勢電という私鉄が伊勢神宮を目指して敷設した線路である。桜井-宇治山田間と同じ背景で建設された訳だが、こちらは沿線の町や村での集客を考慮したためか、駅の前後に速度制限のある急カーブが目立つ。
 戦後、あまりに急なものは改良されたが、それでも随所に速度制限区間があって、ノンストップのアーバンライナーも頻繁に減速と加速を繰り返す。路線自体は平坦地を行くだけだから、本来ならば120Km/hで突っ走れるところがかなりのタイムロスだ。

 鉄道という事業は、投下した資本の回収に数十年を要する事業である。そして、一度建設したインフラは、そう簡単には改良できない宿命になっている。
 あまりに遠大な計画では、初期の資本がいくらあっても足りない。かと言って、近視眼的な計画では、すぐに行き詰まってしまうことがある。
 いまをときめくIT産業は、たった数年で事態が180度転換することもあるわけだけれど、そうした時代背景のもとでは、鉄道事業者の経営判断というのは、相当慎重にならざるを得ないと思う。

 長良川・木曾川を長大な橋りょうで乗り越え、列車は名古屋市内る。右手にJR名古屋工場を見ながら、定刻、近鉄名古屋着。

 近鉄名古屋駅は、JR名古屋駅の東京方にある地下駅である。1938年の開業当初から地下構造であったが、戦後、大幅に拡張されている。

 アーバンライナーから降り立った乗客のうち、相当数がJR乗り換え改札に進んだ。

続く


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2001年10月2日 制作 
2001年10月3日 訂補