能登の鉄道・駆け足試乗記


101D 急行のと恋路号(和倉温泉駅)


のと恋路号の女性運転士


NT800型の車内


車窓風景


ボラ待ち櫓 (のと鉄道の車内から)


珠洲駅本屋 


珠洲駅にて


祭りの準備 (飯田駅前で)

■急行のと恋路号 珠洲行き

 和倉温泉駅2番ホームに、2両編成の短いディーゼルカーが進入する。101D、急行のと恋路号珠洲行きである。

 大きな固定窓に転換クロス式のシート。運転席の後ろは、パノラマ車ふうの造り。海を望むラウンジもある。NT800型という、のと鉄道が所有する唯一の優等列車用車両らしい。運転席直後のかぶりつきシートが空いていたので、ここに乗車することにした。

 開放的な運転台には、女性運転士が乗務しており、きびきびした信号喚呼の声が印象的である。強力なエンジンと空気バネ台車のおかげで、同じ線路でもさっきとは全然違う乗り心地だ。キハ58があえぎながら登った勾配も、意に介さぬといった感じで難なく乗り切ってしまう。

 隣席には、初老の夫婦数組のグループが陣取っている。白髪まじりの紳士たちは、沿線の景色を見ながら、まるで小学生のようにはしゃいでいる。ビデオを回したかと思うと座席を変えて運転席をのぞき込んだりとなかなか忙しい。対するご夫人たちは、菓子を食べながらおしゃべりに夢中だ。齢を重ねても、こうして鉄道旅行を愉しめるのは、幸せなことだと思う。

 穴水からは、のと鉄道線、つまり旧国鉄能登線に乗り入れる。

 奥能登地方への鉄道の敷設は遅く、国鉄能登線穴水-鵜川間が部分開業したのは1959年である。以降、数回の延伸を繰り返し、穴水-蛸島間61.1Kmが全通したのは1964年9月21日。東海道新幹線が開業する前月のことだ。
 駅の多くは、いずれも短いホームに待合室があるだけのシンプルな構造だ。交換可能駅には、どこも似たつくりの小さなブロック造りの駅舎がある。日本が貧しく、けれども、希望に燃えていた時代を彷彿させるストラクチャである。

 右手には、たおやかな富山湾が広がっている。低いサミットを短いトンネルで越えると、再び海が見える。その繰り返しである。

 海の中に何やら粗末な木製の櫓が組まれているのが見える。あとで調べてみたら、『ボラ待ち櫓』と言い、日本最古の漁法に使った設備だそうだ。櫓の上から漁網を吊るしておき、獲物が来たところで網を引き上げる。さすがに現在は実用にならず、いま見られる櫓はすべて観光用に再建したものらしい。櫓の上におっさんが一人佇んでいたが、彼はマネキンであったようである。

 甲、鵜川、宇出津と停車駅ごとに乗客が減っていき、松波駅を出たときには、乗客は十数人となった。

 家並の向こうに見附島が見え、14時12分、終点珠洲着。見覚えのあるブロック造りの駅舎が待っていた。

■珠洲飯田を歩く

 学生時代、能登出身の友人に誘われて、私はこの町で夏の休暇を過ごしたことがある。
 商店街は活気に溢れ、たくさんの人や車が行き交っていた。個人商店の店頭では、客と商店主の会話がはずみ、久しぶりに会った知り合いと街頭で挨拶を交わしている姿もそこここでみかけた。どこか懐かしい、1960年代の日本の姿が残る町という印象であった。

 あれから20年近い歳月が流れ、私は再び珠洲にやってきた。

 質素な駅舎は昔のままだったけれど、駅前の喫茶店やパチンコ屋は店じまいして久しいようである。
 流れる汗をぬぐいながら、通る車も少ない道路を10分位歩くと、市の中心部である飯田に着く。ここで適当な店に入って、冷たい飲み物でひと息入れようと考えていたのだが、その希望は見事に打ち破られた。

 日曜の午後だというのに、町を歩く人の姿はほとんどない。しもた屋ふうの民家と商店、そして駐車場が混在するが、商店の多くは店を占めている。シャッターを開いているわずかな店も、ほとんど開店休業状態だ。かつて、友人としこたま呑んだささやかな歓楽街も半分以上が空き地となっている。木造の好ましい姿であった旧国鉄バス飯田車庫は、鉄骨造りの休憩所になっていた。

 もはや商店街とは言えない集落に突然爆音がとどろく。見上げると、海上保安庁のヘリコプターが異様な低空飛行で急旋回している。日本海側の海岸では、旧来の密漁に加えて、外国からの密入国事件があとを絶たないというから、その取り締まりの訓練であろうか。

 全国どこの地方都市でも見られる旧来の商店街の凋落に、この地域特有の過疎と高齢化が拍車をかけ、珠洲飯田の衰退は見るも無残なものである。無論、いくら過疎地と言えども、郊外の幹線道路沿いには、新しいスーパーやホームセンター等ができているのだろうけれど、鉄道旅行者である私にはその様子を伺い知ることはできない。

 ちょっと惨めな気持ちで飯田駅に向かって歩く。

 駅前の一角では、十数人の青年が集まり、山車の整備に汗を流していた。夏祭りの準備なのであろうか。
 かつて、くだんの友人が、地元で祭りがあるたびに授業を休んで帰省してたことを思い出す。首都圏や関西、そして金沢などに出た若者も、祭りの時期には必ず両親の待つ故郷に帰るのが習わしであったらしい。

 いまもそんな習慣は残っているのであろうか。

 飯田駅は交換不能の小駅だが、町の中心地に近いので小さいながらも立派な駅舎があった。自動販売機で買った麦茶で喉を潤し、せみ時雨を聞きながら列車の到着を待つことにした。

続く


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