鳥栖駅表敬訪問


鳥栖駅本屋

■鉄道全盛時代の忘れ形見

 かつての九州の交通の要衝を表敬訪問するために、鳥栖で一旦途中下車する。

 鳥栖駅の開業は1889年。当時、私鉄であった九州鉄道の手によるものである。1891年には、長崎本線が分岐・開業。以降、大規模な操車場や機関区が設けられ、鳥栖は鉄道の街として発展してきた。1907年、九州鉄道は国有化される。小さな車寄せがある木造の駅本屋は、1911年(明治44年)の建築だから、九州鉄道時代のものではない。

 幅の広い3本のホーム上屋は、古レールの骨組みだ。ここには、多くの外国製レールが使われている。各所にそれを示す刻印が見られ、乗客にもわかるように小さな看板が取り付けられている。レールの製造年は、駅開業と同じ頃のものが多く、この立派なホームは、開業当初のものでないことがわかる。

 これらのホームを結ぶために、地下通路が2本も設けられている。

 以前の鉄道省・国鉄には、旅客が線路を横切る通路を設ける場合、大規模駅では地下通路、そうでない場合は跨線橋という原則があったのだそうだ。跨線橋は低コストで設置できるが、丈の高い鉄道車両を乗り越えるのだから、旅客の垂直方向の移動距離が長くなる---つまり、階段の段数が多くなる。地下通路は、排水設備を設けるなど、維持コストがかかるが、人間の背丈+線路を支える最低限の路盤ぶんだけ階段を上下すれば良いから、乗客へのサービスだ。エレベータもエスカレータもない時代、このようなことまで考えて設備の設置基準が決められていた。カネのかかる地下通路を2本も持った鳥栖駅は、多くの旅人が往来した大ジャンクション駅であったのだ。

 鹿児島方の地下通路脇には、かつて手小荷物を運んだリフトの残骸が残されている。一般的には荷物を荷車ごと吊り上げて、線路の上空を通す仕組みのものが多いが、鳥栖駅のそれは荷車を地下通路に吊り下ろす珍しい方式であったようだ。
 東海道・山陽線から九州各線では、荷物車・郵便車は下り方に連結されるものと決っていた。鳥栖駅の荷物リフトが鹿児島方にあるのは、もちろんこのためである。あと、これはまったくの推測にしか過ぎないが、東京中央郵便局、名古屋中央郵便局、京都中央郵便局、大阪中央郵便局は、すべて駅前広場の西(神戸)方にあるが、これも荷物車・郵便車の連結位置とおおいに関係しているのではないかと思う。

鳥栖駅待合室の売店 『明治44.3.20』の文字が残る鳥栖駅本屋の財産標

ホーム上屋 駅本屋側にもレンガ積みのホーム遺構がある。
 何やら怪しげな雰囲気が....
独国・ウニオン社 1889年製造の古レール
(1・2番ホーム)
荷物リフトの遺構
(1・2番ホーム)

 ともあれ、手小荷物輸送の営業は、ごく一部を除いて旧国鉄時代に廃止されていて、こうした設備が不用になって久しい。鳥栖駅のリフトも地下通路への『穴』がコンクリートで塞がれていた。

 駅東側には、巨大なサッカースタジアムと、真新しいマンション・一戸建て住宅がまばらに立ち並んでいる。ここが鳥栖操車場の跡地である。
 1984年2月、当時の国鉄の貨物輸送がコンテナ主体の直行輸送に切り替えられた結果、全国の貨物操車場はその機能を失ってしまった。当初は廃車になったおびただしい数の黒い貨車が留置されていたが、いつの間にかその姿が見えなくなり、ついでレールが剥がされ、草ぼうぼうの空き地となってしまった。その後長らく放置されていたが、ここ数年は各地で再開発が進められており、操車場の遺構は日を追って少なくなってきている。ここ鳥栖でも、門司港方に残された小さなハンプの残骸が、操車場の唯一の名残りのようであった。

 11時43分発の特急『有明20号』で博多に戻る。車両は初乗車となる787系電車であるが、こちらは4両編成の"簡易版"。今日はあとで、再度この鳥栖駅から、ビュフェを組み込んだフル編成の『つばめ』に試乗する予定であるので、詳しくは書かない。

 12時03分、博多着。

続く


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2000.4.20制作 2000.4.21訂補