せめてもの誠意

 医療過誤や医療訴訟に関するHPが多くなった。

 原告、つまりは患者さんもしくはその家族・遺族の主張を読んでいると、医療訴訟は、結局は『患者が苦しんでいるのに医師は何もしてくれなかった。』というところから始まっていることが多い。
 『何もしてくれない医者』に対して不信が募り、その気になってカルテやレセプトを見たら、おかしなことがいっぱい出てきたというパターンである。

 幸い、私自身は医療訴訟の当事者になった経験はないけれど、正直言って、自分が行った診断・治療をあとから見直すと、結果的にはまったく的外れの診断、間違った治療をしていたこともままある。今度からはこういうミスはしないようにしようと心に誓うのだが、医学・医療の世界は幅・奥行きともにとてつもなく広いから、こんどはまったく別の問題で『しまったあ』と思うことになる。

 いずれにせよ、結果論だけでこれまで私が行ってきた個々の医療を評価すれば、お世辞にも完ぺきだったとは言えないだろう。これまで私が担当した症例すべてについて、『カルテの記録ではおまえの治療は間違っていた。その結果、患者の死期が早まったんだから、損害を賠償しろ!』という裁判を起こされれば、私が敗訴し、賠償の責を負わねばならないものもあるのではないかと思う。(もちろん、ごくごくごく一部、ですが)

 けれども、逆に言えば、患者が私を信頼してくれれば、裁判は起こらない。誤解を恐れずに書けば、裁判にならなければ厳密な意味での誤診、誤った治療も表には出ず、従って責任を問われることもないのである。

 私は小心者であるから、自分のやってる診断・治療にはあまり自信がない。まあ、一応人並みに勉強はしているけれど、貧弱な私の頭脳で最先端の医学知識をすべて身につけるのは絶対に不可能である。
 だから、その分、不安に満ちた患者の訴えはとことん聞き、苦しんでいる患者がいれば、とにかく病室に行って顔を見、聴診器をあて、声をかけることにしている。

 患者の顔を見たところで、病気が良くなるわけではない。聴診器をあてたって、聞こえる音は決まっている。医学的には全然意味のない行為だけれど、それで患者さんが安心し、私を信頼してくれれば安いものだ。それが私のようなヘボ医者を信頼してくれる患者さんへのせめてもの誠意である。


(1999.2.11記)


戻る