マニュアルのない仕事

 大手ファーストフードチェーンには、どこにも詳細なマニュアルがあるときく。
 メニューの調理方法はもちろん、接客時の言葉遣い、店舗の清掃の方法までこと細かく決められていて、誰でもマニュアルさえ頭に入れればそれなりの仕事ができる仕組みになっている。名の知れたファーストフード店が全国どこでも、均質で安価なサービスが提供できるのは、この規格化されたマニュアルによるところが大である。

 同じサービス業である医療はどうかというと、実はまっとうなマニュアルがある医療機関など、数える程しかないのではないかと思う。あるいは、もしかしたらあるのかも知れないけれど、それがスタッフ全員に読まれて日常的に活用されている例を私は知らない。

 医療機関で働く人たちは、事務部門を除けば大半が何らかの国家資格を持っている。医師、看護婦、放射線技師、臨床検査技師etc、いずれも専門の教育を受け、国家試験に合格したプロフェッショナルである。仕事に求められる基本的な事項は国家資格を取得する段階で身に付けているはずだから、おせっかいなマニュアルはいらないということかも知れない。

 仕事の内容や目的が多種多様であるということもある。ハンバーガー屋のメニューはせいぜい数十アイテムだろうが、医療機関にやってくる患者さんの病気の種類は数十では済まない。同じ診断であっても、重症度はピンからキリまである。
 医療機関にやってくるのはもちろん病人であり、病気を治すために来院するのだが、現代の医療技術をもってしても治せない病気、確実な治療法のない疾患は数多くある。そういう場合は、治療と言っても試行錯誤の繰り返しとなる。場合によっては、癌の末期患者のように、病気を治療する以外の目的のほうが主になることだってあるのである。

 マニュアルというのは、予め起こりうる事態を想定し、仕事の目的に照らし合わせてこれにどう対処すればもっとも都合がいいかを記した文書であるから、想定の数があまりに多かったり目的が明確でないと、実際に役立つマニュアルは作れない。

 もちろん、他の業種にしたって、経営者や管理職にはマニュアルと呼ばれるものはないだろう。けれども、一般の業種であれば、『売り上げ』とか、『利益』とか、『市場占有率』とかいうような単純な数字が数字がいちおうの指標になる。利益を上げられなかった経営者、売り上げを落とした管理職は失格のらく印を捺されてもしかたない。
 だが、医療機関は営利を目的にしていない(医療法で、営利を目的にするものは病院や医院を開設できない)から、『売り上げ』とか『利益』での比較はできない。患者の命を救うのが医療の役目だとすれば、患者の生存率がその指標であろうか。けれども、いわゆる生命維持装置で生きているだけの人が増えても、誰も喜ばないだろう。最近では、QOL(quality of life=生活の質)が重視されるが、『質が高い生活』なぞというものは、ひとりひとりの価値観にかかわる問題であって、比較のしようがない。

 医療機関では、就職したばかりの新人職員でもいきなりマニュアルのない仕事をしいられる。医療という仕事は、基本的な専門知識や技術をもったスタッフが協力しあい、ひとりひとりの患者さんがかかえるさまざまな問題を解決していく仕事なのである。

 マニュアルのない仕事−−−そう書くと非常にカッコいいが、逆に言えば合格ラインが見えない仕事、終わりがない仕事でもある。

 最終目標が曖昧模糊としているから、手抜きをしようと思えば容易にできる。逆に、納得できる仕事をしようと考えれば、それこそ時間がいくらあっても足りない。医療現場では、一生懸命仕事をしたって、感謝されないこと、評価されないことも多いから、くたくたになるまで奮闘した果てに、現実とのギャップのまえに燃え尽き、絶望してしまう医者や看護婦が少なからずいるのも事実である。
 私も含めて、この業界に数年いれば、たいていの者はそのへんの対処のしかたがわかってくる。というより、対処のしかたを身に付けないと、この業界では働けない。悪く言えば、うまい手の抜きかた、仕事とのつきあいかたを覚えてしまうのであるが、そのような状況でも医療という仕事が一応の社会的信頼を受けているのは、現場で働くスタッフひとりひとりの『困っている人を助けてあげたい』という医療人としての純粋な思いとモラルに負うところが極めて大きいと思う。

 ところで、最近は情報公開が当たり前の世の中になってきた。

 役所であれ、企業であれ、社会を構成する団体は、その仕事の内容、仕事の成果を分かりやすく説明する義務があるとされる。多額の補助金が投入されている医療もその例外ではなかろう。
 けれども、これまで書いたように、医療という仕事の目標はさまざまであるし、その目標を達成する確実な方法もない。仕事の成果を具体的に比較できる指標もない。そうしたなかで、年々増え続ける医療費、つまりは国民の負担に対して、それに見あうだけの成果があったと説明することは困難を極める。

 私は医療現場の第一線で働くフツーの臨床医であるから、どこかの審議会やら委員会にノコノコ出ていって、仕事の成果を宣伝する立場にはない。ただ、なるべく一生懸命仕事をして(本気で一生懸命になると自分の命も危ういから。やっぱり一番大事なのは自分である)、そしてHPにこのような駄文を書き、外部の方にほんのちょっとでも、医療という仕事の中身、実態を知っていただければいいと思っている。

(1999.2.4記)


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