インフォームド・コンセント

 インフォームド・コンセント(infomed consent)という言葉がある。『説明と同意』などと訳されていて、マスコミなどでもさかんに使われる言葉である。

 医療機関において、医師が患者にその診断、選択しうる治療の選択肢と期待される効果・予想される合併症や副作用を説明した上で、患者の合意のもとに治療をすすめることを言う。

 このインフォームド・コンセント、言うは易いが実行するには相当の手間と時間がかかる。

 そもそも、病態や治療方法を何の予備知識もない患者やその家族に説明することは困難を極める。難しい医学用語を使わないというのはムンテラ(患者への説明)の基本だが、言い換えにはあいまいさが伴うことは否めない。平易な言葉だけを使い、たった数十分で病気と治療方針についてすべてを説明することは不可能に近い。ちゃんとした説明ができなければ、それを前提とする同意も意味をなさないのは当然のことである。

 最近は患者の家族も忙しく、『病状と治療方針を説明したいので病院に来てください。』と言っても、なかなか来院して貰えないこともある。夜9時に来院するという家族を待って病院に居残ることも少なくない。『電話じゃだめですか?』と言う人もいる。肉親の命にかかわることを電話で済まそうという神経は到底理解できないが、そういう人に限って、結果が思わしくないと真っ先にクレームをつけるから要注意だ。

 逆に、最近ではこのインフォームド・コンセントが医療機関の責任逃れに使われている面も少なくない。極端なことを言えば、医療事故で患者が死んでも、あらかじめ『治療をした結果、患者が死ぬこともあります。』と説明し、かつ、同意を得ているわけだから、病院には責任がないという考え方である。

 私は、インフォームド・コンセントという考え方の根本には、権利と義務、そして契約という西洋流の思想があると思っている。私はそれが間違っているとは思わないけれど、現在の日本では、医療環境・社会的環境のいずれをとっても、厳密な意味でそれを実行することは不可能であるとも思う。

 短い時間で病状を理解した上、自ら治療方法を選択できる人はまずいない。説明と同意と言っても、医師が勧める治療方針に何となくそのまま同意するケースが大半である。これでは本来の意味でのインフォームド・コンセントではない。

 少しまえ、78歳になる心臓病の患者さんとその息子に、手術をするか、薬で治療するかの選択をしてもらったことがある。手術をすれば確実に治るが、1割程度の人が手術の負担に耐えられずに死ぬ。薬で治療すれば、5年以内に1/3の人が亡くなるが入院の必要はなく、当面普通の生活が送れる。さあ、どっちにしますか、という選択である。

 私は心臓の構造・働きから始まって、病態生理、考えられる治療法とその利点・欠点を懇切丁寧に説明したつもりであったが、患者とその家族の理解はいまひとつで、いつまでたっても『よーわからん』という顔をしていた。そして、いささかピント外れの質疑応答があったあと、50歳の息子はこう言ったのである。

『先生のお父さんやったらどうしはりますか? どっちでも構いません。ウチのオヤジを先生のお父さんやと思うて治療して下さい。』

 これには参ってしまった。けれども、次の瞬間、私はこれが医療の原点だと思った。そして、自分にひとりの人の命が託されたという事実に身震いがし、駆け出し時代の熱い思いが久しぶりに蘇ってきたことを覚えている。

 難しいことはわからないけれど(と言うより、わからないからこそ)、信用できる医療機関の、信頼できる医師にすべてを任せる。そして、それを任された医師は、患者を自分の家族だと思って、誠心誠意治療する。
 考えてみれば至極当然のことではあるけれど、現在の医療現場でそういう関係が成立しなくなったからこそ、インフォームド・コンセントなぞという妙にバタ臭い響きの難解な言葉が登場してきたのではないかとも思っている。

 『患者は黙って医者の指示に従え』型の旧式の医療は明らかに間違っているが、けれども、型どおりの説明をして同意をとりつけ、その範囲内で"契約"どおりの仕事をすればOKという考え方も正しくないと思う。『契約』とか、『権利』とか、普通の日本人にはいまひとつ身近でない考え方に基づく医療でなく、普通の人が、普通に納得できる医療を目指したいと思っている。

(1999.1.30記)
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