1997年9月28日(日)

■札幌〜小樽

 8時すぎに起床。

 今日は、夕方函館から関空行きの飛行機に乗る以外、予定はまったく立っていない。とりあえずホテルを出て、大通り公園まで歩く。休日の公園に観光客の姿は少なく、犬を散歩させたり、ジョギングをする市民の姿が目立つ。ベンチで長考した結果、小樽を散歩してから山線経由で函館に向かうことにした。

  721系快速電車で札幌発。桑園を過ぎると、線路の両側にたくさんの住宅が並び、良く似た造りの新駅が続く。ほしみを過ぎたところで住宅が尽き、電車は日本海に沿って断崖の下を縫うように走る。南小樽では手宮線の廃線敷が右手に分岐し、線路は高架橋の上に上がる。この高架の下に旨い寿司屋や炉ばたの店があるはずだが、今回は断念せざるを得ない。11時23分、小樽着。となりのホームに731系が停車中だったのでディジカメで撮影。

721系交流電車・札幌駅にて

731系交流電車・小樽駅にて

 小樽を訪ねるのは10年ぶりであろうか?
 高い天井の駅舎は昔のままであったが、旧駅事務室の大半がオープンカウンター式の旅行代理店に変わっているのは他の駅と同じである。駅前の通りを運河に向けて歩く。手宮線跡の線路はそのままで踏切警報器もカバーを掛けてそのまま温存されている。しかし、レールはゴミや残土で半ば埋没していて、その上にたくさんの自動車が駐車していた。
 運河を埋め立てて造成されたバイパスを左手に行くと鉄道記念館である。こちらもぜひ訪ねてみたいのだが、時間がないので諦める。行き交う自動車の騒音が気になるが、運河と倉庫は美しく整備され、多くの観光客が記念撮影をしている。
 私が初めて小樽を訪ねたとき、運河はヘドロに埋まり、沈船が放置されていた。木骨石造の倉庫群も、梁が歪んで今にも崩壊しそうなものもあった。あれから15年以上がたち、運河は観光の目玉として見事に再生された。けれども、小林多喜二や伊藤整の小説に登場するような人々の生活の匂いは、きれいに消えてしまったような気がする。

JR小樽駅

手宮線跡

 運河に沿って散策し、次も定番の北一硝子に行く。ここは来るたびに規模が大きくなっていて、この店を訪れる観光客を目当てにした土産物屋の『門前町』が出来ている程である。店内は硝子製品を求める客で身動きもできない程であったが、私はオリジナルグラスに注がれたサッポロクラシックでひと息入れる。

 駅に向かうタクシーの運転手の話では、北一硝子はもともと小樽にあった会社で、漁網の浮き玉や漁船のランプを造っていたそうである。運河沿いに店を出して繁盛しているが、工場自体は増強していないので、現在売られている硝子製品の大半は市場で流通しているもの。自社製品はほとんどないという話であった。

■小樽〜長万部

 小樽駅構内の回転寿司屋で本日の昼食を調達し、ホームに上がる。キハ150型気動車2連の3940Dは既に入線していて、立ち客もいる。

小樽で出発を待つ3940D

銀山で交換したキハ150とキハ40の併結列車

 定刻、小樽発。新型気動車はオタモイ峠の急勾配をぐんぐん加速する。短いトンネルを抜けると、眼下に蒼い日本海が見える。塩谷、蘭島と少しずつ下車があり、余市で立ち客がいなくなった。

 余市からは一面のリンゴ畑の中を一直線に走る。仁木駅は交換設備が撤去され、本線のレールが歪んだようにカーブしている。この先長万部までの区間は交換設備を撤去した駅が多く、かつては特急・急行も走った山線の凋落ぶりを象徴している。
 銀山でキハ150とキハ40併結の下り列車と交換。岩内線跡が右手に寄り添ってくると、程なく小沢である。蒸機の煙で煤けた跨線橋・ホーム上屋は昔のままであったが、駅舎は小さな待合室だけの小屋になっていた。かつては『トンネルもち』という正体不明の名産品があったが、その売店らしいものはない。

小沢駅本屋
岩内線の貨車が止まっていたレールは
剥がされている。

倶知安で見かけた183系
エンジンがかかっていた。

 胆振線の気動車がたむろしていた倶知安の広い構内は、雑草の生い茂る空き地となっていた。わずかに残った側線にキハ183系×4連が止まっていたのだけれど、今日は団臨でも走るのであろうか?

 ここから蘭越あたりまでが山線のハイライト区間である。しかし、今日は雨こそ降っていないが雲が低くたれこめ、羊蹄山やニセコの華麗な稜線は望めない。
 山荘風の比羅夫駅舎は民宿に改装されている。ニセコ駅は車内で料金収受をするが、委託の駅員がいた。真新しい給水塔とターンテーブルが残されているが、本線に繋がるレールは剥がされている。
 目名をすぎたところから勾配がきつくなる。いくつかのスノーシェッドが残る上目名駅の遺構を過ぎるとすぐにトンネルに突入。トンネルを抜けると長万部に向かっての下り勾配になる。黒松内は特急北海も停車した大きな駅だったので、委託駅員くらいはいると思っていたのだが、駅事務室にはカーテンが引かれていた。

 テープによる放送が流れて、定刻、長万部着。

■長万部〜函館〜関空

 長万部と言えば誰でも知ってる名物駅弁がある。もう立ち売りはいないだろうと思っていたら、跨線橋の階段踊り場で弁当を売っているおっさんがいた。1個1000円。道内各地に『かにめし』は数あれど、価格はここが断トツである。何回か食べたことがあるが、値段相応の価値はないと判断して購入を見送った。

 ほどなく室蘭方からキハ183系が入線。

 私の席は1号車15番A。先頭車の前から3列目、しかも助手席側という絶好の場所である。ここからでも十分前方展望が可能だが、カブリツキの17番ABが空席であったので、こちらに陣取ることにした。

長万部に到着する北斗14号

北斗14号の先頭車内

 ロングレール+PCマクラギの上を列車は滑るように加速する。DD51の牽く貨物列車が頻繁にすれ違う。乗降客などほとんどいないであろう小駅にも、構内踏切には遮断機が設置されている。130Km/h運転への対応であろう。
 八雲を過ぎると、前方に駒ヶ岳が遠望できるようになる。森駅の出発信号機は向かって右側の姫川経由が進行現示となっていて、砂原回りの線路を左手に見送って駒ヶ岳山麓へと急坂を駆け登る。さすがのキハ183もぐんぐん速度が落ちるのがわかる。
 大沼公園では予想外の乗客が列車の到着を待っていたが、もとよりすべて自由席の客なので、指定席の1号車に乗り込む客はいない。大沼を過ぎ、トンネルを抜けると、すぐに仁山である。長い引き上げ線が残っていて、もとスイッチバックであったことがよく分かる。
 渡島大野で貨物列車を追い抜き、新幹線のような高架橋をくぐると七飯である。広大な五稜郭操車場跡は建て売り住宅地となっていて、不動産会社ののぼりがはためいている。定刻16時45分、函館着。

 となりのホームには、16時52分発の上り特急日本海が停車中。できればあの寝台車に乗って帰りたいところであるが、大阪着は明朝午前10時前で、職場の始業時間には間に合わない。連絡船の旧桟橋はどうなったのか、駅舎はどう変わったのか、いろいろ見たいものがあるのだが、あいにく飛行機の時間が迫っている。後ろ髪を引かれる思いでタクシーに飛び乗った。
 市内は思いのほか車が多く、赤信号1回待ちで通過できない交差点もあって多少やきもきしたが、17時15分頃、函館空港に着いた。
 搭乗手続きを終えて出発ロビーに行くと、土産物を持ったたくさんの観光客が少し疲れた表情で搭乗開始を待っていた。すでに夕暮れが迫っていて、滑走路の誘導灯が美しい。この時間に函館にいて、今日中に奈良に帰れるとはちょっと信じ難い感じだ。関西弁の密度が一段と濃い一角が関空行き全日空426便の搭乗口で、程なく搭乗が始まった。

 定刻ちょうどにタキシングを開始、すぐに離陸した。眼下に函館の夜景が見えたらしく、窓際の席で歓声が上がっているが、両側を通路に挟まれた席にいる我々にはなすすべもない。たいくつな2時間が過ぎて、定刻、関空着。

 この9月に開設されたばかりの学研都市行きの奈良交通リムジンバスで22時まえに学園前に着いた。

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